あたしが眠りにつく前に
 渡されたタオルを顔に当て、珠結は声量を少し上げた。永峰珠結の名前を出せば、会ってくれるとは思っていなかった。彼女にとって自分は恋敵というより、付かず離れずの異性の幼馴染という中途半端な苛立たしい存在だ。友人との接触すら拒んでいるのだから、一層無理なことだ。ならば、こうするしかない。

「彼は自由になった、彼はもう何にも縛られない。そうお伝えください。あ、彼って言うのは、言えば分かると思いますから」

 はあ、と意味が分かっていない母親は、曖昧に頷く。伝えてと言いつつも、二階にいる彼女に声は届いていることだろう。用件は済んだ。タオルを返してドアノブに手をかけ、あともう一つだけ、と珠結は

「あなたには感謝している。これは嫌味でもなく、心から。気づかせてくれて、ありがとうと。…失礼します、タオルありがとうございました」

微笑み、何か言いたげな母親を遮ってドアを閉めた。

 前の道に出て二階の窓を見上げても、オレンジのカーテンは閉められたままだった。大体そこが彼女の部屋だという確証は無い、あくまで推測だ。

彼女がどう思っているか、部屋から出て学校に来るか。突撃しておいて何だが、分からない。しかし事態は少しは変わるはずだ。良い方向に転がってくれれば、彼女に任せるしかない。これで本当に、終わった。

 依然として雨が降りしきる中、珠結はやや足を引きずって歩き続ける。すれ違う人々は目を向けるも一瞬のことで、各々家路に向かう。今日は本来晴天のはずだった、傘を忘れてびしょぬれになる人間がいたところで何も不自然ではない。滑って転んだとしても、またしかり。

 人気の無い裏道に入ったところで、珠結の体は限界を迎えた。しゃがみこんでスカートも鞄も泥にまみれるが、気にする余裕など無い。濡れて寒いはずなのに、全身が燃えるように熱い。額に手を当てて、納得がいった。
 
 こんなところで行き倒れなんて。重い手を動かし、タオルにくるんで無事だった携帯電話で発信する。気づいてくれるだろうか、微妙な時間帯だ。数コールの後、留守電メッセージが再生されるも、吹き込む気力は残っていなかった。

 その前に誰かが来て気づいてくれるかな。それに携帯はGPSついてるし、大丈夫かな。不思議と焦りや不安は無かった。それよりも気にかかるのは。

 ――――――帆高。

 たとえ今、あたしなんかのために傷ついて、悲しくて辛くても。あの頃とは違うのだから、支えてくれる人がいるのだから。大丈夫、笑っていて。

 ―――――どうか、幸せでいて。

そんな偉そうなことを言える筋合いなんて、これっぽっちも無いけれど。ああ、そういえば、こうなる前に。一度言ってみたかったことがあったんだっけ。

 脳裏の君の顔が霞んで見えない。呆れながらも、きっと笑ってくれたはずなのに。これは恋と呼べる代物じゃないけれども、かけがえのない失いたくなんかないものだった。


 ―――――あたしは君が、大好きなんだよ。
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