不機嫌な令嬢とイケメン家政夫には、ある秘密がありました。
lesson 7
【百合子side】

 突然、アイツに抱き締められた。
 驚きと同時に、激しく動揺する。

 ドキドキと鼓動は早まり、顔は逆上せたように火照り、頭がクラクラする。

 アイツはさらに私を惑わせる。
 私の首筋に顔を埋め、目を閉じ大きく息を吸い込んだ。

 や……やだ……。

 アイツにキス……される!?

 そう思った矢先、アイツはスッと私から離れた。

「ねぇ百合子さん。この香水、蘭子さんと同じだよね?」

「……えっ、香水?……同じ香水だけど」

 私に抱き着いたのは、香水の匂いを確かめるため?

「やっぱり、同じなんだ」

「……っ、なんなのよっ!セクハラで訴えられたいの!」

 ほんの一瞬でも、アイツを意識した自分が恥ずかしい。思わず、アイツの体を両手で突き飛ばす。

「失礼なことをして、申し訳ありませんでした」

 アイツは素直に謝った。
 素直に謝られると、アイツを意識した自分が、尚更恥ずかしくなる。

 動揺している私。ドキドキと高鳴る鼓動を悟られないように呼吸を整え、声を絞り出す。

「……今度ヤったらクビよ」

 私はアイツを睨み付け、地下室を飛び出した。

 地下室のドアを閉め、その場にへたり込む。

 胸のドキドキはいまだに収まらない。
 右手でドレスの胸元を握り締め、気持ちを落ち着かせるために拳でトントンと胸を叩いた。

「なんなのよ……」

 その時の私は、自分がどうしてこんなに動揺しているのか、自分の中で一体何が起こっているのか、理解出来なかった。

 ◇

 その日、パーティーが終宴となるまで、蘭子姉さんは大広間に戻っては来なかった。

「蘭子さんはどうなさったの?」

 両家の親族が、蘭子姉さんが退室し戻らないことを案じている。

「申し訳ございません。先日の強盗事件もあり、姉は体調を崩しておりまして……。自室で休んでおります」

「まあ、そうだったの。新年早々強盗事件だなんて、大変だったわね。この広いお屋敷に若い女性だけで暮らすなんて、もともと無謀だったのよ。防犯面は警備員に任せるとして、お屋敷に執事やメイドもちゃん置きなさい。桜乃宮家が事件に巻き込まれるなんて前代未聞だわ。桜乃宮財閥創業家の令嬢らしく振る舞って下さらないと、わたくしたち一族の恥ですわ」

「……申し訳ございません。その件につきましては、至急姉と相談し検討します」

 私は桜乃宮家の親族に頭を下げる。
 人に頭を下げるなんて最も苦手だが、お父様に恥をかかせるわけにはいかず、丁重にお詫びした。

 向日葵は石南花家の皆様を玄関までお見送りしている。

「向日葵さん、本日はありがとうございました。蘭子さんにも宜しくお伝え下さい。また電話してもいいですか?」

「……はい」

 大樹さんは海外での生活が長かったせいか、別れ際、向日葵の体を引き寄せ頬にチュッとキスを落とした。

 向日葵は林檎みたいに頬を赤く染め、モジモジしている。二人に見とれていると、大樹さんは私に近づき同様にキスを落とした。

 海外のお客様とこのような挨拶をすることはあるけれど、日本人の異性と挨拶でハグやキスはしたことがない。

 些細なことではあるが、スマートで自然な振る舞いに、石南花財閥の御曹司と偽りの令嬢である私達の育ちの違いを感じた。

 やはり蘭子姉さんのように、上手く立ち振る舞うことは出来ない。

「それでは失礼致します」

「本日はありがとうございました」

 リムジンやベンツが連なり正門を抜ける。両家の車を見送り、私と向日葵はヘナヘナと玄関フロアに座り込む。

「……疲れたぁ。向日葵、大丈夫?」

「……はい」

「大樹さんはイケメンだし誠実な人だけど、向日葵、石南花家に嫁ぐということはとても大変なことよ。本当にこれでいいの?」

「百合子姉さん……」

「向日葵は好きな人いないの?」

「好きな人なんて……いません」

「お父様が決めた婚約者だからって、好きでもない人と結婚しなくてもいいのよ」

「私……お父様のご意思に報いたいの」

「向日葵、政略結婚で幸せにはなれないよ。お父様がそうだったみたいに……」

 お父様は政略結婚で蘭子姉さんの母親桔梗さんと結婚した。その結婚は決して幸せなものではなかった。

「あーあ、もう疲れちゃった。こんな窮屈なドレス早く脱ぎましょう。蘭子姉さんは地下室で休んでるの。木村さんに、蘭子姉さんを部屋まで連れてくるように伝えてくれる?」

「……はい」

 アイツと顔を合わせたくなくて、蘭子姉さんのことは向日葵に任せ、ドレスの裾を持ち上げ二階に駆け上がる。

 部屋に入り、ドレスのファスナーを腰まで一気に下ろした。ファンデーションを脱ぎ捨てると締め付けられていた体が解放され、呼吸が楽になる。

 胸が苦しくて動悸がしていたのは、このファンデーションのせいだ。アイツのせいじゃない。

「はぁー、やっと生き返った」

 ランジェリー姿のまま両手を突き上げ背伸びをする。私も向日葵も、煌びやかなドレスは似合わない。高級なブランド品よりも、カジュアルな洋服の方が好きだし、たまにはジーンズも穿いてみたい。

 桜乃宮家の令嬢らしく振る舞うことは、本当の自分を偽ること。

 本当の私は……。

 ドレッサーの椅子に座り、ネイリストにより施された淡いピンクのマニキュアを落とす。上品なネイルアートもいいけれど、刺激的な赤いマニキュアを塗ると抑制された気分が解放される。

 菊さんもいないし、この屋敷には煩い執事もいない。たまにはこんな派手な色をつけてもいいよね。

 脚を組み、赤く染まった爪に「フゥーッ」と息を吹きかけた。
< 38 / 93 >

この作品をシェア

pagetop