不機嫌な令嬢とイケメン家政夫には、ある秘密がありました。
lesson 8
【蘭子side】

 その日の夕方、松平さんが屋敷に到着した。
 私は松平さんと顔を合わせたくなくて、部屋にずっと隠っていたが、廊下に響く微かな物音にもビクビクし室内にいても落ち着かない。

 車の走り去る音が聞こえ、暫くして、階段を上る靴音がした。その靴音は私の部屋の前で止まる。

 ドアをノックする音に、私の体はビクンと反応する。緊張から握り締めた掌にじんわりと汗が滲む。

「お嬢様、松平です。ご挨拶に参りました」

 鼓膜に馴染む低音ボイス……
 とても落ち着いた声……。

 どうしてそんなに、落ち着いていられるの。
 私はこんなにも動揺しているのに。

「……どう……ぞ。入りなさい」

 直ぐさまドアが開いたが、彼の顔を正視出来ず背を向ける。

「お嬢様、お久しぶりです。わたくしのようなものにまたお声を掛けていただき、恐縮至極に存じます。本日より執事としてお世話になります。宜しくお願い申し上げます」

「……これは菊さんの決めた事。私の本意ではないわ。勘違いしないで」

「存じております。先日の強盗事件、テレビでニュースを拝見致しました。腕に軽症を負われたとか、お怪我はもう大丈夫ですか?」

 松平さんの優しい言葉に胸が詰まる。
 動揺している姿を見られたくなくて、私は背を向けたまま話を続ける。

「……心配しなくても大丈夫です。マスコミが大袈裟なだけ。たいしたことはなくてよ」

「お嬢様……」

 松平さんの靴音が近づく。
 一歩ずつ近付く靴音に、胸が張り裂けそうだ。

「それ以上、近づかないで。私はどんなことがあろうと平気なの。お母様が私を捨てた時も、お父様が亡くなった時も、あなたが……この屋敷から出て行った時も、私は困りはしなかった」

「お嬢様……」

 松平さんの足が止まる。
 感情が昂ぶり、堪えていた涙が溢れ出す。

「それなのに、どうして平然とここに戻って来るのよ!何で戻って来るのよ!私はあなたなんか必要ないのに!」

「……蘭子」

「……こないで。部屋から出て行って。私に執事は必要ありません。どうしてもこの桜乃宮家で仕えたいのなら、百合子や向日葵の執事になればいいわ」

「……お嬢様。……退職後も、わたくしはずっと蘭子お嬢様の事だけを考えておりました。強盗事件をテレビのニュースで知り、いてもたってもいられなくなり、柿麿様に連絡しました。わたくしは蘭子お嬢様のお側にお仕えしたい。……生涯、あなたをお守りしたい」

「……やめて下さい。迷惑だわ」

 背後から強く抱き締められた。

 背中に感じる厚い胸板。
 私の体を包み込む逞しい腕。
 全身を包み込む懐かしい……ぬくもり。

「……松平、下がりなさい」

 本当は……
 このままずっと……抱き締めていて欲しいのに……。

 素直でない私は、心にもない事を口走る。

 私と松平さんは、桜乃宮財閥創業家の娘と執事。
 私達が愛し合うことは、桜乃宮家の親族や財閥関係者に、決して認められるはずはない。

「蘭子……」

「下がりなさいと言ってるのに、私の命令が聞けないの。私には……結婚前提で交際している人がいるの。二年前と今では状況が違うのよ」

「……結婚前提で交際?どちらの御曹司ですか?」

「……それは」

 結婚前提で交際している人なんていない。
 これは口からの出任せだ。

 松平さんはお父様の元執事。
 政財界や大企業の御曹司は、全て脳内に記憶されている。

 嘘の名前を上げたところで、すぐにわかってしまう。困惑している私。思わず言葉を濁す。

「……それは」

 ーーその時、ノックもせず部屋のドアが開いた。

「蘭子さん、この間、俺の部屋にイヤリング落としてましたよ。おっと、これは……失礼致しました」

 ドアを開けたのは、木村太陽。
 木村さんの右手には私のイヤリング。ダイヤのついた高価なイヤリングを、右手の指で摘まみ振り子のようにブラブラさせながら、木村さんは部屋の入り口に突っ立っている。
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