不機嫌な令嬢とイケメン家政夫には、ある秘密がありました。
lesson 9
【麻里side】

 ――多摩川、町屋ハイツ――

 私を心配し、お弁当を持ってきてくれた立野さんを部屋に上げ、小さなガラステーブルの上で食事をする。本当は太陽とこうして過ごしたかったが、成り行き上、立野さんを追い返すことは出来なかった。

 それに、立野さんは太陽とも親しい。
 信頼出来る同僚。

「立野さん、ビール飲む?」

「ビール?いいね、麻里ちゃんも一緒に飲もうよ」

「……うん」

 私は冷蔵庫から缶ビールを取りだし、立野さんにグラスを渡した。缶ビールの栓を開け、立野さんのグラスにビールを注ぐ。

「あっ……ごめんなさい」

 緊張から、ビールの泡がグラスから溢れ、立野さんの右手にかかる。上着の袖口がビールで濡れてしまった。

「ごめんなさい」

「大丈夫、平気平気」

 私は立野さんの右手首を拭くため、上着の袖を少しだけ捲った。

 立野さんの右手首には……
 白い包帯が巻かれていた。

「立野さん、その怪我どうしたの?怪我したの?」

「ちょっとね。年末に酔って怪我したんだよ。明日抜糸だから、もう大丈夫」

「抜糸?縫うほどの大怪我をしたの?」

「大したことないよ。医者がガラスの破片で切ったなら縫った方が早く治るというからさ」

 私の脳裏に……太陽の言葉が浮かび上がる。

 ーー『浩介の右手首に傷があるか見るんだ……』

『それがどうかしたの?』

『もし傷があったら、俺がそこに行くまで気をつけるんだ。浩介に気を許すな。いいな』

 立野さんの傷は右手首……。
 太陽がどうしてそんなことを言ったのか、見当がつかなかったが、ただならぬ雰囲気に緊張が走る。

 立野さんの手前、動揺しないように努めたが、体が強張り指先が震えた。

「包帯……濡れちゃったね。救急箱に新しい包帯があるの。巻き直すよ」

「いいよ。もう傷口は治ってっから」

「……でも」

 ーーそう言えば……
 事情聴取の時に、刑事さんに『君島は右手首を怪我していなかったか?』と、何度も聞かれた。

 強盗事件の犯人は……
 右手首を怪我している……!?

 不意に手を掴まれ、ハッとする。

「麻里ちゃん、顔色悪いよ?大丈夫?取り調べ大変だったね。君島なんかと付き合うからだよ」

「……君島さんは……とても優しい人よ」

「優しい?アイツは強盗犯だぜ。きっと余罪もある。実刑は免れないよ。麻里ちゃん、君島と別れて俺と付き合わねぇか。俺、麻里ちゃんが入社した時から好きだったんだ」

「……そんなこと無理だわ。私、君島さんを信じてるの。ごめんなさい」

「何で無理なんだよっ!太陽や君島と寝て、俺とは寝れねぇのかよ!」

 立野さんは豹変し、突然怒鳴り声を上げグラスを床に投げつけた。ガラス片が四方に飛び散り、恐怖から両手で耳を塞ぐ。

「……ごめんなさい。今日は事情聴取で疲れてるの。もう帰って……」

「この俺に帰れってか?俺なら麻里ちゃんを幸せに出来る。金なら幾らでもあるんだぜ」

 立野さんは手にしていた鞄を開けた。
 中には札束がギッシリ詰まっていた。

「そのお金……どうしたの……」

「これは副業で稼いだものだ。ひだまり印刷会社は副業OKだからな。これだけあれば楽な暮らしが出来る。大人しく俺の女になれよ」

 立野さんは私の腕を掴み、乱暴に床に押し倒した。床にはグラスの破片やビールが散乱している。腕や足にガラス片が刺さり血が滲んだ。

「……ぃやぁ、太陽……助けてー!」

 私の叫び声に、立野さんの目が鋭く光る。
 今まで見たこともないような、鋭い視線に背筋も凍る。

「太陽の名前を呼ぶな!虫酸《むしず》が走る!」

 両手で首を絞められ太い指が咽に食い込む。呼吸ができず両手と両足をバタバタと動かし、力の限り藻掻くが次第に意識が遠退き周囲が霞む。

「太陽がなんなんだよっ!あいつはお前を散々弄んだ!俺が本当の愛を教えてやる!」

 首を絞めていた手は解かれたが、私にはもう抵抗する力は残っていなかった。立野さんにブラウスは引き裂かれ、胸の膨らみが露わになる。

 私は……この人に襲われ……殺される。

 叫び声の代わりに……
 頬に涙が伝った。

 強引に奪われた唇……
 体をまさぐる乱暴な指……。

 遠退く意識の中で、最後の力を振り絞る。

「……た……いよう」

 助けて……

 た す け て……。

 ーーマンションのドアが開き、誰かが土足のまま部屋に乗り込んできた。

 その逞しい腕は、私に馬乗りになっていた立野さんを投げ飛ばし揉み合いになる。ボスボスと殴り合う音と呻き声が鼓膜に響くが、体に力が入らず私はボロボロになった人形のように、立ち上がることも逃げ出すことも出来なかった。
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