不機嫌な令嬢とイケメン家政夫には、ある秘密がありました。
lesson 12
【太陽side】

 一月二十四日。

 新しいアパートの契約を済ませ、中古品を扱うリサイクルショップで家電品も買い揃え、俺は引っ越しの日を迎えた。

 俺の荷物は、ここに来た時に持参した二つのボストンバッグと、錆びついた古い自転車だけ。

 引っ越し当日、玄関には三姉妹と松平さん、屋敷に仕えるメイド達が一列に並び俺を見送ってくれた。

 たったこれだけの荷物なのに、松平さんは引っ越し業者を手配してくれた。軽トラックの荷台には一台の自転車と二つのボストンバッグ。南ちゃんや礼花ちゃんから花束を貰い、思わず笑みが零れる。

「皆さん、短い間でしたが色々お世話になりました」

 俺はみんなに深々と頭を下げる。

「太陽さん、いつでもここにいらしてね。ここはあなたの家なのだから」

「……はい」

「また近い内に、桜乃宮財閥の今後について話し合いましょう。それまでゆっくり考えて下さいね」

「蘭子さんそれはご辞退申し上げます。桜乃宮財閥の会長は蘭子さんです。桜乃宮家の後継者は蘭子さんしかいない」

「あなたまだそんなこと言ってるの。もう少し賢い人だと思っていたけれど呆れるわね。あなたが当家の正当な後継者なのよ、辞任するのは私の方だわ」

「困ったな。どう説明すればわかってもらえるんだろう……」

 困り果てた俺は右手で顎を触る。これは幼い時からの癖だ。

「やだ、お父様と同じ癖」

「えっ?」

「一緒に暮らしていなくても、親子の血は争えないね」

 百合子が俺を真似て顎を触り、クスクスと笑った。じゃじゃ馬で男勝り、生意気な女だと思っていた百合子の笑顔。

 百合子がこんな風に笑うなんて、初めて知った。

 百合子の怒った顔と泣き顔しか印象になかった俺は、百合子の明るい笑顔に思わず見とれる。

 虚勢を張り生きてきた百合子。その百合子をほんの一瞬でも可愛いと思うなんて、俺もどうかしている。

 ーーあの日……

 病室で百合子の涙に触れ……

 百合子の唇に触れ……

 俺の中で何かが変わり始めていた。

 それが何なのか……
 自分で認めてしまうことが怖い。

 だから、ここを出て行くと決めたんだ。

「じゃあ、蘭子さん、百合子さん、向日葵さん、どうかお元気で……」

「はい。太陽さんもお元気で」

 滝口さんがリムジンのドアを開いた。俺には不釣り合いだが、蘭子が用意してくれたもの。その好意に甘え、花束を抱えたまま俺は後部座席に乗り込む。

 車の中から三姉妹に視線を向ける。
 向日葵はぽろぽろと涙を零し、気の強い百合子の目にも、ツンとすました蘭子の目にも涙が光る。

 親の財力に胡坐を掻き、のうのうと生きてきた桜乃宮財閥の令嬢。その概念は、今の俺にはない。

 ここに立っているのは、運命に翻弄されながらも、悲しみを心の奥底に抱え強く生きる三姉妹だ。

 最後に、ずっと抱いていた疑念を晴らすためにある言葉を口にする。

「……鈴蘭、二月二十三日。神戸のバーで待ってるよ。必ず来てくれ」

「……鈴蘭?」

 三人が顔を見合せた。この中に、この言葉の意味がわかる人物がいるはずだ。メイドがざわつき、松平さんが「静かに」と、注意する。

「滝口さん、車を出して下さい」

「もう宜しいのですか?」

「もう話は終わりました。車を出して下さい」

「はい。畏まりました」

 キョトンとした三人の目の前で車のドアが閉まる。呆然と立ち竦む三姉妹を残し、リムジンは豪邸を後にした。

 ーーこれで……謎が解ける。

 鈴蘭なら、俺の言葉の意味が理解できるはずだ。

 二月二十三日、俺達が出逢った神戸のバーに現れた女性が、一夜を共にした鈴蘭。

 きっと彼女は現れる。

 俺はそう信じて疑わなかった。

 ◇

 勤務先ひだまり印刷会社から徒歩数分の三階建てマンション。

 1LDK。築二十年。一階の部屋にはバルコニーの代わりに小さな庭がついている。と言っても、庭の広さは三畳くらいだが、これでも俺には贅沢な物件。以前住んでいたアパートよりは少しだけ出世した。

「滝口さん、マンションまで送って下さりありがとうございました。色々お世話になりました」

「太陽様、ご用の際はいつでもこの滝口にお申し付け下さい。蘭子様からもそのように指示を受けておりますから。これは私の連絡先です」

 滝口さんは俺に名刺を差し出す。
 俺はその名刺を受け取らず、礼を述べる。

「ありがとう。でも、このマンションにリムジンは似合わないよ。それに自転車さえあれば、何処にでも行ける」

 滝口さんはニッコリ微笑み、「そう仰有らずに、受け取って下さらないと蘭子様に叱られてしまいます」と、半ば強引に名刺を手渡した。

「ありがとうございます。滝口さんは俺の命の恩人だから、お守り代わりに財布に入れておきますね」

「命の恩人だなんて、光栄でございます。太陽様、お元気で。またお屋敷に戻られる日を楽しみにお待ちしております」

「滝口さんもお元気で」

 リムジンの後から着いてきた軽トラックの荷台から、自転車が降ろされる。俺の愛車だ。

 滝口さんは運転席から降り、後部座席のドアを開く。リムジンから一歩足を踏み出す。

 ーーこれでもう魔法は解ける。

 夢の世界から現実世界へと、俺は降り立つ。
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