もてまん

「あたし、千鶴子さんとは長い付き合いなの。

十二の時から千鶴子さんにピアノ習ってたのよ。

結局あたしは、声楽を選んだんだけどね。

あたしの母は早くに亡くなったから、なんとなく母の様に千鶴子さんを慕ってた。

ポリープで歌えなくなって、あの店に誘ってくれたのも千鶴子さん。

ポリープって言ってもね、できた場所が悪くて、術後はもうオペラは無理って言われて落ち込んでね。

高い声がね、やっぱり、どうしても出なくて……」


綾は、そう一気に言うと、眉間に皺を寄せて遠くを見つめた。


「父は芸大の教授だったじゃない。

あたしが、そんなバーで働くって聞いて、怒って見に来たの。

それが、たまたま千鶴子さんのステージの日。

すっかり参っちゃったのね、父は、千鶴子さんの歌声に」


「心に響いたんだ」


「そう、その通り!」


そう声を上げた綾の目はキラキラと輝いていた。


「それからは、もう、ずっと、千鶴子様よ」

「そうですね、増田さんは、千鶴子さんのこと、千鶴子様って呼んでますね」

「あたしの父は、超堅物なの。

あたしの母ともお見合い結婚だったらしいし。

生まれてこの方、女性に愛を語ったことなんてきっとないわ。

敬意を表すことが、父なりの愛情表現なのね」


繁徳は店で二人に茶目っ気たっぷりにウィンクしていた、増田の顔を思い浮かべた。

(超堅物って、結構そうでもないんじゃないかな)
< 251 / 340 >

この作品をシェア

pagetop