もてまん
「あたし、千鶴子さんとは長い付き合いなの。
十二の時から千鶴子さんにピアノ習ってたのよ。
結局あたしは、声楽を選んだんだけどね。
あたしの母は早くに亡くなったから、なんとなく母の様に千鶴子さんを慕ってた。
ポリープで歌えなくなって、あの店に誘ってくれたのも千鶴子さん。
ポリープって言ってもね、できた場所が悪くて、術後はもうオペラは無理って言われて落ち込んでね。
高い声がね、やっぱり、どうしても出なくて……」
綾は、そう一気に言うと、眉間に皺を寄せて遠くを見つめた。
「父は芸大の教授だったじゃない。
あたしが、そんなバーで働くって聞いて、怒って見に来たの。
それが、たまたま千鶴子さんのステージの日。
すっかり参っちゃったのね、父は、千鶴子さんの歌声に」
「心に響いたんだ」
「そう、その通り!」
そう声を上げた綾の目はキラキラと輝いていた。
「それからは、もう、ずっと、千鶴子様よ」
「そうですね、増田さんは、千鶴子さんのこと、千鶴子様って呼んでますね」
「あたしの父は、超堅物なの。
あたしの母ともお見合い結婚だったらしいし。
生まれてこの方、女性に愛を語ったことなんてきっとないわ。
敬意を表すことが、父なりの愛情表現なのね」
繁徳は店で二人に茶目っ気たっぷりにウィンクしていた、増田の顔を思い浮かべた。
(超堅物って、結構そうでもないんじゃないかな)