サクラ



『拝啓。
 残暑も漸く峠を越え季節は涼やかな秋となり、益々ご活躍の様子、その姿がラジオからもはっきりと覗えるようであります。
 先日、私のリクエスト曲を掛けて下さり、そればかりかお言葉迄添えて頂いた事、大変嬉しく思い拝聴致して居りました。
 と、本当は言いたいところではありますが、実のところは、私のイニシャルがラジオから流れて来た瞬間、嬉しさの余り、せっかく掛けて頂きましたリクエストの曲を満足に聴いて居りませんでした。
 年甲斐もなくとお思いでしょうが、私のように、世間様と縁が切れた者にすれば、そこに言葉にし難い喜びを感じたのだという事で、お察し下さればと願う次第でございます。
 貴女様の語り掛けて下さるお声は、私に安らぎを与え、静かな眠りへと誘ってくれます。
 それは、きっと私だけではなく、あの時間、ラジオの前で耳を傾けていらっしゃる多くの方々も、同様の思いで、ささやかながらも幸福を噛み締めてらっしゃるのではないかと、私は思って居ります。
 私には一人、弟が居るのですが、私という兄の弟であるが為に、筆舌に尽くし難い辛酸を舐めて居ります。
 愚かしい兄の為に、弟は人生に何の光りも見出だせないまま、歩んでいるのです。
 そんな弟に私は何もして上げられません。
 そこで、誠に厚かましいお願いではありますが、弟の為に彼の大好きな歌手の曲を贈って上げたいのです。
 曲名とかは詳しくは存じませんが、歌手の名前は、エディット・ピアフという外国の方であります。
 本当に厚かましい事とは思いますが、弟にも、私が感じたようなささやかな喜びを感じさせてやって下さいませんでしょうか。
 生きる事に、何の望みも喜びも見出だせないまま、彼の人生を終わりにさせてしまうのは、兄としても切ないものがあります。
 曲目は、お任せ致します。
 又しても不躾なお願いをしてしまった事を深くお詫び申し上げますとともに、ペンを置く事と致します。
 乱筆乱文、大変失礼致しました。
              敬具
            梶谷耕三
麻宮千晶様へ          



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