前略、肉食お嬢様―ヒロインな俺はお嬢様のカノジョ―


わざわざ車から降りる田中さんは、後部席の扉を開けて「乗って下さい」紳士に接待してくれる。

こんな凡人に接待しなくても……いやはや、申し訳ない。


ぺこりと頭を下げて、俺は車に乗せてもらう。

広いひろい後部席には誰もいない。


先輩は家で待機しているのかな?


窓際に腰掛けた俺は膝の上に荷物を置いて、運転席に戻る田中さんに声を掛けて質問をする。

曰く、先輩は習い事に行っているらしい。


今日は合気道の稽古だとか。


うっわぁ、大変だな。

休日でも習い事とか。

朝から道場に行っている、そう教えてくれる田中さんはにこやかに綻んだ。


「今日のお嬢様は一段と気合が入っておりました。空さまがいらっしゃるからでしょう。『今日は全員に勝つ。師範も含めてな!』と申しておりました。負けてはヒーローの名が廃るとかなんとか」


「ははっ……あー、嬉しい限りっす」


意識してくれているんっすね、我がヒーローは。


ヒロインの俺はほんっと嬉しいっすよ。泣けてきますっす。


本来なら、俺がヒロイン……いいんっす。いいんっす。


男のポジション譲るって言いましたもんね。男に二言はないっす。


でもちょっぴし、マウントポジションを代わって欲しい気も。


というか、合気道を習っていたんだ……先輩。


体力ありそう。

俺、負けるかも。


肉体的にも精神的にも。


空笑いする俺を乗せて、田中さんの運転する高級車は国道を走る。


弾んだ会話もなく、俺は後ろへと流れていく景色を眺めていた。

休日だというのに自転車で塾に向かう学生さんや、『7』のロゴマークがデカデカと掲げられているコンビニ、シャッターの下ろされているラーメン屋。


面白いほど色んな景色が俺の視界に飛び込んでくるけど、然程興味をそそる景色はない。


追い越していく自動車の色を見つめたり、横断歩道で駄弁っている小学生の群集を目にしたり、犬と散歩している人間を流し目にしたり。


つまりは手持ち無沙汰なんだ。


暇なら対策の一つでも練れって話だけど、今更考えても答えはひとつだろ。


一週間以上悩んでも貞操の危機を守るには“逃げる”しかないって結論しか出なかったんだから。


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