六天楼(りくてんろう)の宝珠
「幻想ではなかったよ。……少なくともあの時は」

 彼女はゆるゆると首を横に振っていた。

「最後に一つだけ、我儘を言わせてください」

 これ以上は聞いてはならない。いたたまれず、翠玉は意思の力を総動員して踵を返そうとした。

「お別れの挨拶に抱き締めてくださいませんか。今この一度だけ、あの時の様に──」

 駆け出した足元の草が、茂みが身体に触れ音を立てた。

「誰かいるのか!」

 鋭い声は碩有のものだとわかったが、翠玉は駆け出す足を止められなかった。後ろを振り返りもせずに駆ける。駆けて駆け続けて、全く見た事がない建物に辿り着いてしまった時、初めて彼女は足を止めた。

 此処がどの楼か、そんなものはどうでも良かった。全身の震えを納めようと必死で、しばらくは何故胸が苦しいのかが理解出来なかったから。

 例えどんなに碩有が妻は自分だけだと断言しても、絆を信じられずに脆く自分はつまづいてしまう。

 信じられない己がまた、悔しかった。

 何故過去は翠玉のものではないのだろう。今まで歩んで来た時間も、何故夫のものではないのだろう。

「……何て、愚かなのかしら」

 後悔したくないと榮葉の元に行った。自業自得なのだ。

 過去は過去だと割り切って目をつぶっていれば、少なくともあんな場面を見ずに済んだだろう。碩有は自分がいたとわかったかもしれない。妻の、人として恥ずべき振る舞いをどう思っただろうか。

 涙は出なかった。きっと、泣く事ではないのだろう。

 泣きたい気持ちではあったけれど。──翠玉は遂にその場にくずおれ膝を付いた。
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