ウォーターマン
笙子
 久坂経介は、五十歳の誕生日を迎えていた。久坂には大学生の頃知り合った細君(さいくん)と、一人娘がいる。娘子(じょうし)の名は笙子。才色兼備(さいしょくけんび)と評判の令嬢であった。三月五日は、久々に親子三人水入らずで、久坂の誕生日を祝うスケジュールになっていた。
 久坂は仕事を早々に切り上げると、午後七時半には世田谷の寓居(ぐうきょ)に帰着した。久坂の帰宅を妻の美(よし)子と笙子は満面の笑顔で出迎え、直様ささやかなパーティーが開幕した。
 笙子の手作りであるビーフストロガノフを頬張る久坂は、
「どんなゴージャスなパーティー、一流の料理よりも素晴らしい」
 と満悦(まんえつ)していた。久坂は妍(けん)好(こう)で、気立ての優しい笙子を、溺愛(できあい)している。知性があり、慎み深い美子も心から愛していた。親子三人で過ごす一時が、久坂にとって至福の時限であった。
 晩餐後、笙子は久坂に甘える様に語言(ごげん)した。
「今度の日曜、会ってもらいたい人がいるの」
 久坂は瞬刻眉を顰(ひそ)めたが、内心の聳動(しょうどう)を押し隠した。
「何だ。恋人か?」
 笙子は羞恥(しゅうち)心(しん)で、聊(いささ)か赤面している。
「どういう男だ」
「本間技研の工場で、働いている人なの」
 笙子の言に、久坂は眦(まなじり)を険(けわ)しくした。
「工員か」
「ええ。真面目でいい人よ」
「日本人か?」
 久坂が、怪訝(けげん)になるのも無理はない。工場は共産主義者(創世党によれば独裁主義者)や無政府主義者(創世党によれば破壊主義者)の巣窟(そうくつ)であり、公安省は、彼奴(きゃつ)等(ら)を無数に捕縛(ほばく)している。その為現今の工員は、外人が過半数を占めている。前世紀末より問題となっていた外国人不法就労者達は、磨生内閣が制定した出入国自由法のお陰で、ノーヴィザでも就業(しゅうぎょう)できるようになっていたのである。


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