唐女伝説
 長門国大津郡向(むか)津具(つく)久津に住む小助は、朝の海岸を歩いていた。この辺りの海辺は、良質のワカメや岩海苔の宝庫である。小助は不漁の時、それらをとって売り、家計の足しにしていたのだった。今朝も小助は腰迄海水に浸かり、ワカメを抱えきれないくらい採り漁っていた。
 小助は漁に夢中になっていたが、やがて一段落着くと、浜辺に腰を降ろした。ワカメと岩海苔に囲まれて、満足そうに深い紺碧の日本海を眺望した。三十になるというのに独身のこの漁夫は、人付き合いが苦手で、独り暮らしをしている。性格は偏屈という訳でもない。顔立ちも、可愛い面相だった。背丈が低かったが、体格は良く、人のいい男であった。
 ただ少々放浪癖がある。盆と正月の時分になると、自分の舟で彼方此方へ出掛け、隣に住む両親に心配をかけるのが常であった。両親は何度も縁談を小助に持ち掛けたが、何れも破談し、諦めの境地に達しつつある。小助は何故結婚しないのか、己でも不鮮明なところがあった。何となく現在の生活に満足し、そして得体の知れない夢を見ていたのかもしれない。
 平城京では五年前に東大寺大仏が開眼し、この七月には橘奈良麻呂の乱が起きている。隣国の唐は安禄山の乱の真最中で、世の中が仄かな不安の中で平和を楽しもうとしていた、そんな時代だった。小助の兄は家業を嫌い、家出同然で上京し、平城京で仏門にあった。小助は兄の道山を憧憬しつつも、向津具の風土を心から愛し、ここに生きることに異存はなく、かといって平凡にも嫌気を感じるのである。
(海はいい。唐の国や天竺にも繋がっている。一遍でもいいから、よその国へ行ってみたいのう)
 小助は吐息した。彼は、いい年をして子供じみたところがあった。三年前に来朝した唐僧鑑真の話を兄から聴いて以来小助は、
「今戦乱に荒れているという唐に行ってみたい」
 と途方もない夢想をするようになっていた。目前の海洋を茫々と望んでいると、満更不可能なことではないような気がするのは、決して嘘ではない。
 そう思えると小助は楽しくなって、ゆっくりと立ち上がった。
(?)
 
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