剣と日輪
 は大陸に進出した大日本帝国の指導者の元締めと見做され、戦争犯罪人として続々と巣鴨拘置所に収監されていく、
「人類の敵達」
 のルーツという扱いに貶められていた。
 公威は戦後のマスコミが作り上げた、
「右翼」
「反動」
 という仮想敵の一味に選り分けられ、疎外(そがい)されてしまったのである。もう公威の才知(さいち)で、どうにもなるものではなかった。
 苦心(くしん)惨憺(さんたん)しながら打開策を模索(もさく)する公威の目に、或る日川端康成の書状が飛び込んできたのである。公威は戦時中二度しか手紙を出していないが、川端が自分の才藻(さいそう)を評価しているのは、一度きりの返書から推知(すいち)できた。   
 公威は、これまでも使えるコネには全てアタックし、
「学生作家」
 という地盤(じばん)を営築(えいちく)した。
「作家になりたい」
 という熱望だけが、公威に残された生きる糧(かて)だった。それ以外の望みは皆露(つゆ)と消えた。たった一つの命の綱が、断たれんとしている。公威は崖っぷちに追詰められている己の位置を十分把握し、もがきながら活路を見出そうとしていた。
 公威は、
「川端先生に会いたい。会って文壇前に横たわる障害を超越する力を借りたい」
 と切望(せつぼう)し、十一月下旬に、
「文芸」
 の野田編集長をおとない、自費製作の名刺の裏面に川端宛の紹介状を一筆書いて貰った。
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