アリスズc
∠
「ああ! 殿下!」

 マリスが、はっと我に返って彼に呼びかける。

 テルは、ようやく木の幹から手を離した。

 一瞬。

 桜の森にいる気分だった。

 ここは、魔法領域か。

 イデアメリトスの自分に幻影を見せるほど、この木の力は強いということだろう。

 だが、あれはきっと母も見たことのある景色。

 母の国にある景色。

 ただ幸いなことに、テルはその世界に引きずられることはなかった。

 美しくはあったが、自分のいるべき国はここなのだと疑う余地なかったのだ。

 テルには、一瞬の迷いもなかった。

「殿下、いま! いま!」

 同じ景色を、マリスも見たのだろう。

 マリスは、涙を浮かべんばかりに感動の声をあげた。

「先回りして、捧櫛の神殿へ向かおうと思っていたのです。そこで殿下をお待ちしようと思っていたのです」

 そんな彼が、テルに追いつかれてしまった理由は。

「ですが、この花が余りに美しく、描かずにはいられなかったのです」

 画家としての、病に襲われたのだ。

「よかった…私は、ここにいて本当によかった…描きましょう、殿下を。世界一艶やかな太陽の子として!」

 感激したままマリスは、苦笑を浮かべずにいられない言葉を口にした。

 艶やか、と。

「美しくある必要はない」

 テルは、すげなく言い置いて桜の木から離れ、従者たちの元へと戻ろうとした。

 そこには。

 微妙な空気が流れている。

「……?」

 テルは、三人を見た。

 つらそうなエンチェルク。

 不機嫌なヤイク。

 そして。

 そんなエンチェルクをかばうように立っている──ビッテ。
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