―you―


 寺田さんは私の肩を持って、ピアノから剥がした。私は椅子に横向に座り、泣き続ける。寺田さんはピアノを弾き出した。ファイの子守歌。
 キラキラした右手、レガートで分散和音を奏でる左手。目を閉じて、眠りなさい。寺田さんの深いテノールが、部屋に響く。体をそっと包み込む、暖かい毛布のような歌声だ。やっぱり、子守歌はお父さんが歌うべきなんだ……。









 気が付くと、私は休憩室のソファーにいた。寺田さんの声ではなく、本物の毛布も掛かっている。顔を上げて、時計を見た。大練習室で二部の通しが始まる。


「すみませんでした。何か、取り乱しちゃって」
「初めての主役だからな。疲れてんだろ」
「そうですね…」
「そんなに気負いするなよ。適当にやれ、適当に」
「寺田、天野に変なこと吹き込むな」
 ういー。

 私の居場所は、舞台の上。立って、芝居して、歌う。この場所が好きだ。
「優、今日の帰り」
 どうだ?寺田さんは酒を飲む仕草をした。私はちょっと考えて、少しなら、と指で答える。
 それから、とレッスン室で投げてしまったペットボトルを渡された。
「あー、ありがとうございます」
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