雨音色
帝国大学での独逸刑法の授業は、学生の間ではその分かり易さで好評を得ていた。


25歳の若さで既に講堂の過半数を埋める事はそうそうあることでは無い。


そのため、時には陰口を、特にエリート層から叩かれる事もあったが、


彼のゆったりとした人柄故か、彼の学生からの評判はかなりのものだった。








当時の帝国大学は、エリートの集まりで、当然のように皆が金持ちであったが、


藤木はその中で唯一、貧乏な暮らしを送っていた。


着る物も普段は人からもらったものや、父が昔着ていた古い着物だった。


黒い髪も長くぼさぼさで、眼鏡も最近では度が合わなくなってきていたが、


それを変える生活の余裕はなかった。


やっと助教授になれ、病弱な母親の薬代で生活費が消費される中、


余計なものは買えるはずがない。



父が生きていたころは、それなりの生活を送れていた。


息子一人大学へ行かせられるほどに。


しかし、父が亡くなってから、彼の生活は一変した。


住む場所も、生活水準も、全てが下降した。


学費も払えなくなった。


大学も本来であれば、退学となるはずだった。


しかし、ゼミナールの担当教官であり、父親と友人であった牧教授が、

学費も生活費も援助し、卒業させてくれた。


果ては大学に残るように、と自分の助手になることまでを勧めてくれた。


そして現在、彼はここで授業を行いながら、刑法についての研究を行っている。


帝国大学というエリートの集まりの中では貴重な経験をしている彼は、


周囲の者よりもどこか親しみやすいものがある。


それが一つの好評の要素なのだろう、そう牧は考えていた。









< 8 / 183 >

この作品をシェア

pagetop