拝啓、親愛なる眠り姫へ
 一口に言ってしまえば、俺が面倒臭い教師を黙らせただけのことだった。それだけで済ますなよ、と語り手は眉を下げて苦笑する。

 もっと詳細に言えば、遡って中学2年の初秋の頃の話。体育祭を間近に控えた時期だった。

何も特別な事は無い。体育の授業は各々が出場する競技の練習にとって代わり、横断幕や応援の小道具の制作を通して学校中がムードに包まれていた。

 その中で当時の担任は誰よりも熱い意気込みを見せていた。ああ、そういえばそうだったな。当時を思い出したから、俺の眉間には反射的に皺が寄っていると思う。

“何事にも全力で”がモットーの彼は、全ての学校行事に先導を切ってグラスを引っ張ってきた。…そこまでは良い。

なにしろ過剰に結果を求めるのだった。

「2年が総合優勝だなんて、無理があったのに。3年生には体力面でも技術面でも敵わない部分があると思うんだけど。暗黒時代だったな、あの時は」

「せめて学年優勝、なんて妥協は認めなかったんだったな。『1位以外に何の価値がある?』本当に教師なのかって、耳を疑ったな」

 彼が体育の教員でもあることで、体育祭への思い入れは異常なまでに強かった。前年に受け持った2年のクラスが大快挙の2位だったにも関わらず、閉会後に反省会と言う名の叱責会が催されたという。その拷問を経験した上級生には心底憐れむように激励された。

クラスと担任が発表された時点で、一種の諦めは備わっていた。前もって聞かされていた分、覚悟はあった。クラスメート達も遅かれ早かれ達観していったはずだ、その時までは。

『こんな時に何考えてるんだよ!? どうするんだよ、おい!!』

 体育祭の3日前、サッカー部で俊足を誇るクラスメートが部活中に怪我をした。そんな彼に投げつけられた怒声は体育の授業中のグランド全体に響き渡った。

怪我をするのに考えるも何もない、大事を取って体育祭は見学する一択だろうに。恐らくクラス全員の心がピタリと一致したことに違いない。

 彼の顧問にまで責任を問いかねない剣幕は、その場の全員の辟易と反感を増幅させた。とはいえ下手に反応すれば、ますます勢いは増すばかりだろう。

賢明で憐れな傷心の彼は黙って俯き、嵐が過ぎるのを待っていた。俺はクラス中の視線を受ける彼の背中を見つめていた。まあ、直に収まるだろうと見越していたのだが。

『あいつだったら良かったのに』

 小声ながらも、確かにそう聞こえた。そして、それ以後の記憶は全くない。

気がついたら教師の姿は無く、何故か唖然とした様子のクラスメート全員に取り囲まれていた。頭上で鳴り響いた授業終了のチャイムで、ようやっと現実感を取り戻した。

「なあ、あの時何があったんだ? 俺が何かしたのか? あの後は皆して気まずそうだったし、結局今の今まで誰も教えてくれないし。もうかなり経ったんだ、いい加減解禁してもいいだろ」

「…本当に覚えてないんだな。あー、えっと帆高は何もしてないよ、ただ言った内容が…。でもまあ世の中にはさ、知らない方が良いこともあるんだよ」

「…何だよ、その意味ありげな言い方は。結局は教えてくれないのかよ。まさか『死ね』とか『殺す』とかじゃないだろうな」

 ノーコメントで、と奴の口はシャットアウトされた。きっと近からず遠からずと言ったところか。これ以上は追及しても無駄だろう。己のことながら、当時の自分は何と身の程知らずというべきか。

 だが、いつまで経っても俺には何のお咎めも無かった。強いて変わったことと言えば、教師がだいぶ大人しくなった。それゆえか、あからさまにクラスメートには感謝の言葉を投げ掛けられた。

そして大したことではないが、以降は連中の俺を見る目にやや怯えの色が含まれるようになったぐらいか。いやはや、全く些細なことだ。

「いやー、もし俺が言われたら二度と家の外出られないわ」

 …中2の俺よ、お前は一体何をしでかしたというのか。

 消してしまいたくとも、人の記憶とは意外と堅固にこびりついているものだ。肝心なことが抜け落ちているのが間の抜けた話だが、『知らぬが仏』を有り難く受けとることにする。

 過去の忘れ物を今になって取り戻したかのよう。抱いているこの感情は安堵や納得に似ている。一息ついてカップの冷めきったブラックコーヒーを飲み干した。

「俺さ、ずっと好きだったんだよ。珠結のこと」
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