リムレスの魚
 
「わからないな…」

小さく呟いた声は呆気なく霧散して消えた。顔を近づけ、まじまじと写真を眺めてみる。
 それは、白黒のエコー写真だった。判別のつかない真っ暗闇の中に、小豆の粒よりも小さい丸いものが写っている。

医者がいうには、これが赤ちゃんらしい。

といっても、発見が早過ぎてまだ胎児自体を見ることはできない。丸く見えるのは胎嚢といって、赤ちゃんを包む袋なのだそうだ。
頭と胴体の区別もなく、手も足もまだ存在しない。ちいさな豆粒。魚の卵のようなこれが、人間という生き物になるらしい。
遥には、それはただの空洞にしか見えなかった。


「お待たせ致しました」

コト、とテーブルにコーヒーが置かれる。
去らないウエイターに顔を上げると、彼は驚いた表情でこちらを見ていた。

「そ、それ…」
「はい?」
「赤ちゃん、です、か…?」
「そう」
「あ…、え、っと…、おめでとう、ございます」
「ありがとう」

しずかに写真を裏返す。動揺している意味がわからない。
怪訝そうな顔を向けてみると、彼はギクシャクとカウンターの中に戻っていった。

 遥はバッグから手帳を取り出し、汚れないようにそおっと写真を挟みこんだ。

 それはビジネスマン向けの実用的な手帳だった。可愛らしさの欠片もない、恋に恋する女の子たちは決して欲しがらないような手帳。カバーは黒革で出来ており、飾りは一切なく、表に小さく金字で西暦が入れてある。

 それに写真を挟むと、なんだか尚更、その卵の存在が夢のことのように思えた。

 まだ四週目の、ちいさな命。
それは現実味の薄い、ひどく曖昧なもののようだった。


 遥はゆっくりとまぶたを閉じた。手帳の上に両手をのせると、ひんやりとした革の感触が気持ちいい。
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