失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】




そしてドアを開けた

「ただいま…」

絞り出すように家の奥に告げる

応答はない

母は買い物だろうか?

今日は居間にいないみたいで

鍵開いてるし…無用心過ぎる

僕は逃げるようにすぐ

階段を上がっていく

あ…ドアが開いてる

今日は暑いから

…?

寝息…?

部屋から寝息が聞こえる

まさか兄貴…帰ってるの?

こんな時間に?

僕はあわててベッドを覗いた




兄が寝てる

居た

すぐそこに兄が…

僕の緊張がプツッと切れた

「う…う…」

兄のベッドの足元に崩れ墜ちる

僕は嗚咽していた




「ど…どうした…?」

その声に兄が起きた

「どうしたんだ…お前!」

兄が驚いて布団をはね飛ばし

足元にいる僕を見つけた

すぐに降りてきて

僕の背中をさすってくれる

「大丈夫か?なにかあったのか?」

驚いて心配そうな兄の問いに

僕は首を横に振った

「友達…大丈夫だった?」

僕はなんと言って良いか分からず

無言でうなずいた

「具合悪いのか?」

「…近い…か…な」

ようやく泣きながら僕は答えた

「近い…?」

「全部…全部うまく…いったんだ

…カミングアウトも…デモの録音も

ヤツは…友達は死なない…すごく

ピンチだったよ…でも…みんなも

頑張って…」

兄は少し和らいだ声になった

「そうか…良かった…良かった」

「ダメなんだ…」

「どうして…?」

とても優しい声で兄が聞いた

「なんでか…わからない…危機を

抜けたら…安心して…安心したら

なにもかも…空っぽに見え…て…」

背中をさすっていた兄の手が

そこで止まった






 

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