失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】



脱衣カゴを前に

僕の神経は焼き切れそうだった

温まったはずの身体は震えていて

全身の血液が逆流しそうだった

服を床に落としバスタオルを取る

兄の携帯はまだそこにあった

僕はバスタオルを肩にはおった

その手で兄の携帯を掴んでいた

震える手で二つ折りの携帯を開く

メールの履歴を開く

大学の研究室と担当の教授から

バイトの担当から

履歴はその数件だった

着信履歴を開く

それも学校

バイト先



そして僕

…病院?



そこには見慣れない名前の

病院の電話番号が一件だけあった

市外局番がうちと違う

ここ…どこ?

僕はその番号を暗記した

この病院は

アドレス帳に登録してある

でなければ履歴に名前は出ない

僕は震える指でアドレスを開いた

兄のアドレスには登録は少なかった

僕は頭から血の気の引いていくのを

感じながらある名字を探していた

兄の旧姓

一度だけ見た兄の幼稚園のアルバム

兄の名字は僕の名字ではなかった

その理由を僕に訊かれた母は

その後アルバムを僕から隠した




兄のアドレスには

その名字はなかった

安堵と失望の入り混ざった

とても嫌な気持ちが広がった

僕はアドレスの病院の名前を探した

そしてもう一度その番号を

目に焼き付けた



ここにいる

僕は確信した



身体がすっかり冷えきって

風呂に入った意味もなくなっていた

僕はよろけながら服を着て

バスタオルの下に急いで携帯を戻し

新しいバスタオルで頭を拭き

兄の使ったバスタオルに乗せた

声が震えているのを悟られないよう

母に風呂から出たことを告げて

がくがくする膝で階段を上がった

自分から兄に携帯を届ける勇気は

今の僕にはあるはずもなかった








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