雨が降ったら

『あ、あの……っ』


 今日。
 彼は、いつもとちがうシートに座っていた。

 そこは、わたしが普段手すりを利用しているシートだった。

 気分を変えてみたかったのかと、特に気にも留めずわたしはいつものようにシートの手すりを掴んだ。

 降りしきる雨。

 人が多いわりに知人同士で乗り込む者が少ないらしく、バスの中はいつも静寂に包まれていた。

 赤信号で、バスが止まった。アナウンスが次の停留所を案内する。

 わたしは彼の頭上のボタンを押そうと手を伸ばした。

 そのときだ。

 彼の手がわたしのそれよりひと呼吸分早く、ボタンに触れた。
 ぴかっとライトが点り、『次、留まります』と女の人の声がした。

 あれ、と思った。

 この人、わたしと同じバス停じゃないはずだけど。

 すこしだけ不思議に思って視線を落とした。

 予期せず彼と、目が、合った。


『あ、あの……っ。これ』


 蚊の鳴くような声をふるわせながら彼が差し出したのは、一枚の封筒だった。

 秋空のように澄んだ薄い水色の封筒。

 わたしに? と反射的に返しそうになったけれど、
 すぐ近くに乗客がたくさんいたからとっさに言葉は呑み込んで、
 ちょっとだけ頭を下げると無造作に受け取った。

 彼が席をいつもの場所と変えて座っていたのは、わたしがいつもそのシートの手すりを掴んでいると事前に知っていたからだろう。

 わたしに? などという野暮(やぼ)な質問をしなくて本当によかった。


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