Fahrenheit -華氏-




緑川は涙が乾ききっていない目で俺を不安そうに見る。


「……どうして…?」緑川の声は震えていた。


俺は緑川の手からグラスをすっと取り上げると、場違いなほどにっこりと微笑んで見せた。


「悪いけど、浮気はしない主義なんだ。それとも君の過去話も嘘?」


緑川の瞳の中に険悪な何かが光った。


だけど、俺は敢えて言葉を飲み込もうとはしなかった。


「同情を引こうと思ってる?もしそうだとしたら、相当な女優だな。まぁ俺は騙されないけど…」





バシンっ!






突然、左の頬に強烈な痛みを感じ、俺は顔をしかめた。


「…ってー…」


そろりと頬に手をやると、生ぬるい何かを感じ俺は自分の手のひらをゆっくりと見下ろした。


指先に赤い血が僅かに線を描いている。



ってーな。ったく、思い切りやりやがって…



緑川は目を真っ赤に充血させ、懸命に涙を堪えている。俺を平手打ちした手のひらは僅かに震えていた。





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