狂犬病予防業務日誌
「次の日、その老人はあっさり警察に捕まって事件のことを自白しました。なぜか狂犬病予防業務日誌に老人の名前と王子様を処分した記述が残されていたとのこと。なんでもその老人は昔臨時職員として保健所に勤めていたらしいの。

 保健所を見回る警備員さんは2階の会議室でヘッドホンをつけてテレビを見ていたので階下の騒ぎにはまったく気づかず、定期的に巡回していないことが発覚して責任を取らされる見込み」

 おれが老人に刺された理由がわからない。母親が言ったとおり犬が逃げたことへの腹癒せで刺したのか?よくわからない。それにしてもあの警備員の竹山さんにサボリ癖があったなんて……過去の経歴や見かけで人を判断してはいけない良い教訓になった。

 不思議と2人に憎悪を抱かない。彼らは肩身の狭い思いをしていることだろうし、いまのおれには復讐する体力も度胸も知恵もない。

「刺されたとき、王子様は這ってあるところへ向かいました。冷蔵庫のドアを開け、頭を突っ込んだままうわ言のように“ごめんなさい”を繰り返して過去のたわいない悪戯を反省していました」

 皮むきが終わり、食べやすくスライスしたリンゴを母親が皿にのせた。
「まだ気にしてたの?」
 母親の気楽な尋ね方におれは全身の力が抜けた。

「ぞぉだぁよぉ(そうだよ)」
 久々に声を出したので掠れてうまく発音できなかった。恥をさらしてでも返事をかえしたかった。

 そのとき、雲が風で流されて太陽が顔を覗かせた。

 同心円の配列となった光の輪が窓を射して母親の顔を逆光で隠す。

 陽の暖かみを吸収した影響なのか窓についていた雪がずり落ちた。

 まだまだ春は遠いのに家族との雪解けが早まりそうな気がした。
 
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