六天楼の宝珠〜亘娥編〜
──此処でなしくずしに負けてはいけない!

 長い拘束の後ようやく唇を離した碩有を、恨みのこもった涙目で見上げた。

「こ、こんなの。碩有様らしくありません」
「私らしい?」

 息を飲む程に美しく、そして冷たく黒い双眸がこちらを見下ろしている。

「これが本来の私なんですよ。いつもは抑えているだけです。相反するものに責め苛まれて……掟を作った領主の気持ちが、とてもよくわかる気がする」

 いっその事、と自嘲気味に笑った。

「誰にも手出し出来ない場所に、閉じ込めてしまいましょうか」

 掠れた囁きと共に、長い指先が裾の合わせ目に滑り込んで──膝を割ろうとしたその瞬間、翠玉の我慢が限界を超えた。

「い……いい加減にしてください──!!」

※※※※

「昨日より御館様のご機嫌が大層悪いらしい、という噂で奏天楼は持ちきりでございます」

 隣に並んで歩く侍女|阿坤(あこん)の淡々とした一言に、翠玉は思わず振り返った。

 妻が出歩く時の護衛にと夫の碩有が新たに配したこの女性は、臈たけた外見に似合わず武道を嗜む剛の者である。侍女の着物を着てはいるが確かに身のこなしに隙がない。

 顔面までも鍛えられたのかという程表情に乏しいのが玉に瑕(きず)だが、素朴な態度は信頼感を与える。少なくとも翠玉は結構気に入っていた。──しかし。

「仕方がないのです。悪いのはあの方なのですから!」

 強く言って足を速めたが、脚力の差か阿坤との距離が開く事はない。

 二人は住居としている六天楼を離れて、歩きながら中庭を愛でている所だった。折から続く好天、午をやや過ぎた日差しは柔らかく庭の木々を揺らし、整備された石畳と芝に降り注いでいる。

 広大な敷地内に四つの楼閣を主殿と建てられた陶家の本邸、翠玉はその主の夫人として楼の一角を与えられていた。

 様々な趣向や意匠を凝らした庭園も、今となっては彼女の行動範囲と言っても過言ではない程になじみにはなっているが、方角に沿って季節の庭木が植えられているのを全て見ようとすれば丸一日は掛かる。

 散策好きな彼女にとって、庭は格好の退屈しのぎだった。
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