六天楼の宝珠〜亘娥編〜
「領主の妻は通常、夫が亡くなれば年齢に関わらず尼僧院に入ると私は聞いております。遺言で指示でもない限り。それを『望むなら』鄭に帰すと言われたのです。元々お考えだったとしてもおかしくはありません。──貴方がご自分を罰しては、槙文様のお心に背くだけではないのですか」

 あるがままの自然を愛する人を、六天楼(ここ)に繋ぎとめておくのは酷だと。

 槙文が聞いたままの人となりなら、きっと思ったに違いないのだ。

「そうかしら……」

 しばらく押し黙ってから、季鴬は少しだけ瞳を滲ませて「かもしれないわね。誰にでも優しい人だったから」と寂しそうに笑った。

「遺言もそう言えば、側室一人ひとりに希望を取れと指示があったわ。誰もが困らない様に気を配る。最期まで、あの人らしいと思ってた」

 いずれにしても、もう二十年以上昔の話よ──そう言って、季鴬は立ち上がった。

「季鴬様」

「ねえ貴方。名前をまだ聞いていなかったわね」

 閉じられた雨戸に歩み寄って、首だけでこちらを見て問いかける。

「翠玉と申します。あの、差し出がましいとは充分わかっていますが……碩有様にお会いになっては頂けませんか」

「今更だし、きっとあの子は会いたがらないでしょう。それより貴方が仲直りするのが先じゃないの?」

 複雑な表情に、自嘲の気配が加わった。人はこんな風に笑えるのかと、翠玉の方が哀しくなる位に。

「あの時どうすれば良かったのか、気づいたのはもう相手がいなくなった後だったわ。翠玉さん──貴方も、いつでも取り戻せるなんて思わない事ね」
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