歌姫〜ウタヒメ〜
song.00:屋上の歌姫
はあ、はあ、と荒い息遣いをして少女は階段を一気に駆け上がる。
赤茶色の長髪を揺らしながら激走し、辿り着いた先にあったのは『立入禁止』と書かれた札が掛かった扉だった。
所々塗装が剥がれ、古ぼけたそれの前で少女はふぅ、と呼吸を調えると躊躇わずにドアノブに手を掛ける。
「あれ、まだ来てないや。……屋上で落ち合おうって言ったくせに」
少女が不服そうに呟いたのは、目的の人物が到着していなかったからである。
見下ろせるはずの風景を遮るように設置された少女の背丈程の銀色のフェンスを尻目に、屋上の入口付近にある鉄梯子を登り切った少女はすとんと腰を降ろし満足げな笑みを浮かべた。
本来屋上に備え付けられた給水タンクとの間を行き来するための梯子であるが、少女がいるその場所はフェンスという邪魔物に遮られずに峰崎ヶ丘(ミネガサキガオカ)町の景色が一望できるこの町切っての見晴らしを誇る場所なのである。
少し肌寒い冬の空気に混ざる春の匂いが、季節の変わり目を告げる三月初旬のこの日。
風は優しく少女の赤茶色の髪を撫でる。一凪ぎの風の冷たさとほんの少しの暖かさを感じることが、この時、この場所、この瞬間さえもが愛おしいと感じながら、少女は焦げ茶色の瞳を閉じ想いを馳せる。
「本来ならアナタの門出を祝福する日だったのにね」
消え入るような囁きにも似た少女の呟きは、余韻の残滓も残さずに木の葉を揺らす風によって掻き消された。
ふう、と小さな一息を吐いて、大きな一息を吸う。前触れはなくともそれが始まりの合図。
そこに響き渡るのは透明なソプラノ音。まるで屋上という空間だけ時間が止まったかのように、真っ直ぐな声のみが聞こえる。
流れるのは門出の日に歌うには相応しいとは言えない、ゆったりとしたテンポの失恋ソングだった。
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