Fahrenheit -華氏- Ⅱ


―――単なる見間違い?


いや、もはや“あれ”が見間違いではないことを俺自身気づいている。


席に戻ってスーツの内ポケットにしまいこんだ“婚姻届”の存在を確かめた。


まだ真咲に返してない。


あいつからも連絡がない。




そして俺は―――まだ決断を下していない。




どのみち、瑠華には話さなければならない。


でも―――話したら、瑠華に今度こそ嫌われるに違いない。


今度こそ顔も見たくないと思われるに決まっている。




過去を清算するには―――あまりにも大き過ぎる代償だ。




俺はちらりと瑠華の横顔を伺った。


彼女は相変わらず無表情に淡々と仕事をこなしている。


「コーヒー飲みます?」


急に聞かれて、俺は目をまばたいた。


「―――え?」


「疲れていそうでしたから、眠気覚ましに。淹れてきますよ」


瑠華がちょっと微笑んで、俺の心臓がドキリと音を立てた。


こんな風に……何気ない表情で胸が高鳴ったり、何気ない心遣いがすごく嬉しかったり……


こんな風に思える女―――


この先出逢えるとは思えない。






俺は瑠華を失いたくない。





絶対に。






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