平安異聞録


自室に戻った聖凪は、それこそ今日一番に眉間の皺を濃くしていた。言った、確かに自分は「分かりました」と言質をとった。だがしかしそれは、父が相手の名を言う前である。



常日頃、油断大敵と口を酸っぱく言われている父にやられてしまったのだ。二重の意味でくやしいではないか。


聖凪も他家の姫よりも成人が遅れているという事は重々承知しているのだ。いき遅れだ何だと囁かれようが、実は不器量だから両親も踏み切れぬのだろうと噂されようが、実際絶世の美女には変わらぬし、誰にも見劣りしないと本人が思っているのだから、誰が言ったか分からない噂など気にもとめていなかった。


しかし、そろそろ自分にも──────と思っていない訳でもないのだ。



ただしかし、相手の名前が悪すぎる。



藤原有嗣と言ったら、なるほど今をときめく藤原一族に相違ないだろう。しかし、参議殿は摂関家とは血の繋がりは無かったと記憶している。それこそ並々ならぬ努力でようやく参議の位までこられたお方だ。参議殿は確かに優れたお方だと思う。しかし、その息子である有は父の位を枷にきて好き勝手に振る舞っている、うつけ者ではなかったか。



聖凪からしても二十とはいかずとも大分歳がはなれていたはずだ。浮いた噂なども、聖凪の耳に入ってくるほどである。そして何より今は離縁されたようだが、側室はおろか正室もおられたはず。



初婚の相手がそのような者などもってほほかだ。



「…」



最早ため息すらでない。



聖凪は立ち上がると、周りにの居ない事を確かめ唐櫃を開き今まで着ていた単衣をおもむろに脱ぎ始めた。そして、奥にひっそりとしまってある闇にとける墨染の衣を取り出すと、そのまま袖を通した。


一見、市勢で見かける普通の衣のようだが、以前書物で見た大陸の衣装を模してあるそれは、太股から足首にかけて両脚に一本ずつ縦に切れ目が入っていて丈が長いながらも、俊敏な動きが出来るようになっている。



聖凪は初めてこれを見た時、なるほど先人の皆々様が考えるこは理にかなっていると、大層関心した。そこで、見様見真似女房たちに隠れ自分で仕立てたのだった。



髪の毛を一つに纏め、被衣を被ると階の裏に隠してあった草履を履き、そのまま庭から木を伝って塀を乗り越え、表の通りへと抜け出す。



これがいつも通りの貴族の姫である聖凪の憂さ晴らしの夜の一人歩きなのである。



時刻は亥の刻。



一人歩きにはよい、夜の帳にしっかりと覆われている。



邸を出ると、すぐに一条の戻り橋がある。そこは昔、父である安倍晴明がたくさんの式神や式を召還していたとされているが、今は都の雑鬼たちが昼寝をしているのを目にするくらいだ。



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