桜が散るその日
「斉藤さん……。着物のことなんだけど、誰にも言ってないよね」
心配だ。ものすごく。この人なら、さっきのようにさらっと言っていないと、肯定できない。もしかしたらがある。信じていたのに、こんな裏切りがあるとは思っていなかった。
 もしばれていたのなら、説教なんて生半可なもので収まらない。もう二度と、あの桜を、夢を見ることは出来ないだろう。
 でも、母様がそんな酷いことをするだろうか。母様はきっと、そこまで非情なお方ではないだろう。そう信じている。でも、兄様は?お家のために何でもする兄様ならどうする?お家のために利用できる自分を閉じ込めるだろうか?
 あの優しい兄様がそんなことをするはずがない。いくら、無関心になったとはいえ、兄様は兄様。非情ではない。優しい兄様だ。奏はそれを知っている。
 奏は、一瞬でも兄様を疑ってしまった自分を叱る。
「誰にも言うわけありませんよぉ。秘密は守る人間なんですぅ」
胸を張る斉藤さん。実に信用性に欠ける発言だと、肩が下がる。がっくりきた。腹を空かせた虎が兎を目の前に、あなたを食べません、なんて言っているのと一緒。信じられたものじゃない。
 しかも、その虎はさっきしでかしたことに気がついていない。犠牲になった兎を見たあと、もう一匹の兎は虎を信じられるわけもなく、後悔しか残らない。
 喉まできたものは、口さえ開けば言葉となって出てきてしまうだろう。
 幸い、斉藤さんに紅を塗ってもらっている奏は、言葉を発することが出来なかった。助かったのだろう。斉藤さんを傷つけないあたり、本当に助かった。
「出来ましたよ」
斉藤さんの手からようやく解放された奏は、ちらりと自分の姿を鏡で見る。
 思ったことは、ただ一つ。
 誰?
 鏡に映った女性は、自分の動きに合わせて同じ動きをする。しかし、その姿は自分ではない。知らない人。別に、顔が変わるほどの厚化粧というわけではない。寧ろ、化粧をしているのか疑うほどの薄化粧であった。
 それなのに、鏡に映っている彼女が、自分であるなんてわからなかった。自分なのだと認めることが出来なかった。
 綺麗だとも、思えなかった。
 お面。人形。飾り。そんな風に見えた。なんの感情も表さない、物。どこまでも、虚ろだった。
 鏡を見たまま動かなくなった奏を、斉藤さんは猫だましで引き戻した。
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