白頭山の残光
PYONGYANG 1994
 最初美里は間違ってブラックホールにでも来てしまったのかと思った。都会暮らしに慣れた美里の目には、そこはそれほど暗かった。どうやら夜の曇天らしく、月も星も出ていないから暗く感じたのだが、目が闇に慣れてくるとそこが山奥の森の中だと言う事が分かった。
 近くから水の流れる音が聞こえてくる。どうやら大同江の岸辺というのは本当だったようだ。だが、それにしても、と美里は思った。ここは首都平壌から50キロしか離れていない場所のはずだ。
 見渡す限り灯りがない。街どころか人家らしき物も見えない。ここは本当に平壌の近くなのか?その疑問にはソンジョンが答えた。
「2011年でも首都からちょっと離れればこんなもんだ。この1994年の時代ならなおさらだ」
 それからソンジョンとソナはリュックを下ろして開き、中からいろんな物を取り出し始めた。まず電池式のランタンで灯りをともし、近くの長い木の枝を切って数本Xの形にロープで組み上げ、時空の穴の前にふさぐように置く。これで時空の穴から人が出てくるのを防げるわけではないが、誰か出てきたら一目で分かる。
 それからソンジョンがリュックから分厚いゴムのシート見たいな物を取り出し、ソナが自分のリュックから小さな機械を取り出した。目にも留まらぬ素早さで二人は、そのシートを広げて、その隅にその機械を取りつける。なんと、それは船のエンジンだった。さらにソナが携帯ガスコンロのカセットボンベみたいな金属缶をチューブでつないで、プシューという音がして、そのゴムシートはあっという間に数十倍の大きさに膨らんだ。三人が楽に乗れるゴムボートだったのだ。
 ソンジョンとソナの一連の動作を美里はただ茫然と突っ立って眺めているしかなかった。いかに特殊な訓練を受けた軍人とは言え、これほどとは美里も想像もしていなかった。
 それが終わると三人の着替えだった。北朝鮮の首都に潜入するわけだから、この時代のこの国の服装になっておく必要がある。ソンジョンとソナはそれぞれの軍服に、美里はあの軍服にしか見えないが軍服ではないという服に着替えた。
 その着心地の悪さに美里はすぐに悲鳴をあげた。ごわごわして、すぐしわになり肌がざらざらと擦られているように感じる。ソンジョンに訊いてみる。
「この生地何なの?一応化学繊維みたいだけど?」
「それはビナロンだ」
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