もしも願いが二つ叶うなら…
- 第四章 ( 消せない三つの傷 ) -

【 元カノ…ユイ 】

 眠れないまま、夜が明けてしまった。
 カーテン越しに差し込む淡い朝の光が、やけにまぶしく感じる。
 今日は、どうしても仕事へ行く気になれない。
 昨日の出来事が、何度も何度も脳裏に浮かんでは、胸を締めつけてくる。
 あなたに、私は何をしてあげられるだろう?
 あの深い悲しみを、ほんの少しでも癒すことができるのだろうか。
 その傷は、きっと想像を絶するほどに深くて広くて。
 あなたの“笑顔”だけじゃない。
 きっと“涙”すら奪ってしまったのかもしれない。
 辛くても、悲しくても、どんなに泣きたくなっても。
 あなたは決して涙を流さない。
 あの夜のように――。
 凍える冬が終われば、やがて暖かい春が訪れるように。
 あなたの心にも、いつか春がやってくるのだろうか。
 もしも、そう願ってくれる人がいれば。
 もしも、その春を一緒に迎えたいと願う誰かがいれば。
 それが私であっても、いいですか?
 自分でも驚くほどに、心が揺れている。
 でも、揺らぐことのないものが、確かに胸の奥にある。
 それは――
 あなたを想う、この気持ち。
 
 行く気にはなれなかった。
 けれど、それでも何とか店に出勤し、今日の営業を終えることができた。
 疲れが身体の芯に残っている。けれどそれ以上に、心が重い。
 今日はもう夜の練習はやめよう。
 まっすぐ帰ろう――。
 そう思って荷物を取りに休憩室へ向かうと、煙の匂いが鼻をかすめた。
 ドアを開けた先にいたのは、タバコをくゆらせているジュンの姿だった。

「ジュンさんは……知ってるんですよね?」

 聞くつもりなんて、なかった。
 でも、なぜだろう――。
 口が自然と動いていた。

「何を?」
「アヤカちゃんのことです」
「……聞いたのか」
「どうしてケン君だけが、あんな酷い目に遭わなきゃいけないんですか……。悪いことなんて何もしてないのに……。ずっと、自分を責め続けて……追い込んで……」

 朝から必死にこらえてきた感情が、一気に溢れ出してくる。
 止められなかった。
 ジュンは、ゆっくりと煙を吐き出した。

「あいつは、自分を守る言葉を知らないんだ。罪悪感を抱え、自責の念に駆られ、それを背負い続けることでしか、自分の存在を許せない。自分を責めることで、どうにか心の均衡を保っているんだよ」
「でも、救ったと思うんです。たとえ……アヤカちゃんが、死を選んでしまったとしても……」
「……俺も、そう思うよ」

 ジュンの声は、どこか遠くを見つめるように静かだった。

「でもな……俺は、あの時のケンを知ってる。きっと他に、どうしていいのか分からなかったんだと思う。自分で作り出してしまった、目の前の“現実”ってやつに――」

 その言葉に、チカの涙は止めどなく頬をつたう。
 どうすることもできず、ただ指先で拭うしかなかった。

「ケンにとって、これは“悪くない”なんて一言で済むような話じゃない。誰かがそう言えば言うほど、逆に苦しみが深くなる。言葉ってのは時に、思いやりの形をして、ナイフにもなるんだ」

 あの夜、チカが言った“ケン君は悪くない”という言葉――
 たしかに本心だった。けれど、それはあまりにも軽すぎたのかもしれない。
 自分の言葉が、誰かの傷を広げてしまうこともある。
 あの時は、他に何を言えばよかったのかも分からなかった。
 ジュンは静かにタバコを灰皿に押しつけながら、ぽつりと呟いた。

「あいつは今でも、覚めることのない悪夢の中で生きてる。ようやく、その底から這い上がろうとした時――その出口を、硬くて重い蓋で塞いだ女がいたんだよ」
 
 
* * *
 
 3年前――。
 あいつには、ユイという恋人がいた。
 アヤカのことがあってから、二人の関係は少しずつ、けれど確実に崩れ始めた。
 あの頃のケンは、まるで氷のように心を閉ざし、感情のすべてを凍りつかせていた。
 それでもなお、彼が唯一、心の隙間を見せようとしていたのが、ユイだった。
 きっと、アヤカの名前を口にすることすら、彼にとっては苦痛だったはずだ。
 それでも、どうにか心の拠り所を求めるようにして、アヤカのことをユイに打ち明けた。
 その時、返ってきた言葉――。

「その子を自殺に追い込んだのは、ケン……あなたよ。その子の両親からしたら、あなたは――人殺し」

 その一言で、ケンは居場所を失った。
 音を立てるように、すべてが崩れ去っていった。
 心は空っぽになり、自分が生きている意味さえ見えなくなった。
 “あなたは悪くない”
 “あなたのせいじゃない”
 そんな言葉を求めていたわけじゃない。
 ただほんの少しでいい。
 少しだけ、ユイの肩に寄りかかりたかった。
 何も言わなくていい。
 ただ、隣にいてほしかった。
 それだけだったのに。
 ――理解してほしかった人に、拒絶された。
 その後、二人は「別れ話」を交わすこともなく、お互いに自然と離れていった。
 もともと、ユイの両親はケンの育った環境に偏見を抱いており、交際に反対していたらしい。
 ユイ自身も、両親に認められない恋を、この先も続けることに疲れてしまったのだろう。
 それも、別れの理由のひとつだったのかもしれない。
 二人の恋は、あっけないほど静かに終わった。
 それ以来、ケンは女性という存在に対して深い不信感を抱くようになった。
 そして、心に壁を作るようになっていった――。
 
* * *
 
 
 ジュンの言葉ひとつひとつが、チカの心を静かに、しかし確実に締めつけていった。
 今にも折れてしまいそうなほどに、心は脆く揺れていた。
 あなたを知れば知るほど、何もできない自分がもどかしくなる。
 その過去の話を聞いて、怒りを覚えなかったわけじゃない。
 けれどそれ以上に、ただ涙を流すことしかできない自分自身が、虚しくて、悔しかった。
 “生きている意味がわからない”
 ――どうか、そんな哀しいことを思わないでほしい。
 あなたは、ちゃんと生きている。
 悲しみも、苦しみも、傷つくことも――
 それらはすべて、あなたの“心”が確かに生きている証だから。
 もし、それらを感じることすらできなくなってしまったら――
 その方がずっと、ずっと哀しい。
 その夜、チカは家に戻ってからも、ずっと涙が止まらなかった。
 自分の無力さを噛みしめるように、枕に顔を埋めたまま、涙だけが静かに流れ続けた。
 そして、いつの間にか――そのまま眠りについていた。
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