もしも願いが二つ叶うなら…

【 雨空から落ちる雫 】

 梅雨に入り、雨の日ばかりが続いていた。

「今日も雨か……」

 チカは美容室の店内から、ガラス越しに外を眺めてぽつりと呟いた。
 その声を近くで聞いていたミサキも、曇った空に目をやる。

「明日はデート?」
「うん! お台場に行く!」
「誰と?」

 わざとらしい口調で聞いてきたミサキは、今にも吹き出しそうな顔をしている。

「ケン君に決まってるでしょ!」
「てか、まだ“君”付け?」

 途端にミサキが目を丸くし、当惑したような表情を浮かべる。
 付き合って3か月――
 まだ「ケン君」と呼び続けている自分が、少し子供っぽく思える時もある。
 “ケン”と名前だけで呼ぶのは、どこか気恥ずかしい。
 けれど、いつかは呼んでみたい。
 そんな思いが心の奥で芽生えながらも、胸の内でくすぶっていた。
 今さら変えるなんて……
 そう考えた瞬間、頬がほんのりと熱を帯びた。
 
 そして翌日――
 梅雨の合間、奇跡のように広がった青空。
 朝から空気は澄みわたり、陽ざしが心地よく肌を撫でる。
 当初の予定では電車で向かうはずだった。
 けれど、あまりにも気持ちの良い天気と、「バイクに乗ってみたい」というチカの小さな願望を、ケンがさりげなく叶えてくれた。
 バイクに乗るのは、これが人生で初めて。
 ワクワクよりも先に、足元から不安がじわりとこみ上げてくる。

「電車にする?」

 ケンが優しく問いかける。
 その目に宿るのは、いつものようにあたたかな光。
 チカは勢いよく首を横に振った。
 そのあと、少し間を置いてから何度も縦に頷く。

「大丈夫?」

 そう重ねて聞かれた時も、チカは迷いなく首を縦に振り続けた。
 するとケンの顔が、すっと近づいてくる。
 彼の顔が目の前で止まり、おでこにそっと温もりを落としたあと、ヘルメットがやさしく被せられた。

「これで、大丈夫」

 魔法をかけられたチカは、ふわりと笑って頷き、バイクの後ろに跨った。

「俺の体に手を回して、ぎゅっと掴んでれば、心配ない」

 言われた通りにケンの背中へしがみつく。
 ドキドキと心臓が跳ねながらも、不思議と恐怖は薄らいでいった。

「じゃあ、出発するよ?」

 その声に合わせて、チカはさらにぎゅっとケンに抱きついた。
 ケンはバックミラー越しに、静かに微笑んだ。
 しばらく走るうちに、バイクのスピードにも慣れてくる。
 風が心地いい。
 陽ざしはあたたかい。
 そして何よりも――背中が、優しい。
 赤信号で止まるたびに、ケンは振り返ってこう聞いてくれた。

「大丈夫?」

 そのたびに、チカは小さく頷く。
 もう怖くなんてない。
 あなたと一緒なら、何も怖くない――。

「気持ちいいね!」

 チカの声は、走る風にかき消された。

「んっ?」

 ケンが振り返って聞き返す。

「気持ちいいね!!」

 今度は風に負けじと叫んだ。
 ケンは何度か頷いてから、そっと微笑む。
 その優しさに、チカの胸はじんわりと熱を帯びていった。
 そうしているうちに、バイクはお台場へと到着する。
 ウィンドウショッピングを楽しんだあと、二人はカフェに入った。
 しばらくして店を出ると、空はすでに朱から藍へと変わりはじめている。
 海辺を並んで歩くうちに、あたりはだんだんと薄暗くなっていった。
 やがて空が夜の顔を見せはじめた頃、チカはそっとケンの手を握った。

「最後に、観覧車に乗ろう?」

 彼女の言葉に、ケンは微笑んで頷く。
 二人は手を繋いだまま観覧車へ向かった。
 ゴンドラに乗り込むと、静かに扉が閉まる。
 ゆっくりと上昇するそれは、まるで宙に浮かぶ時間の箱だった。
 夜景が徐々に広がり、二人だけの小さな空間を優しく彩っていく。
 東京タワーの時とはまた違った美しさ。
 けれど、それ以上に輝いて見えたのは、向かいに座るケンの表情だった。
 観覧車が頂上に差し掛かる頃――
 彼の目は、少年のように無邪気な光を湛えていた。
 その輝きに見惚れたチカは、ふと勇気を出して声をかける。

「――ケン」
「どうした?」

 恥ずかしさを紛らわすように、チカは対面していた席からケンの隣へと移る。
 横に並びながら、そっと尋ねた。

「今、何を考えてるの?」

 その言葉に返すように、チカの額にそっと温かな唇が触れる。
 ふわりと、優しい感触が残る。
 チカは照れくささを紛らわせるように夜景へ視線を向け、そっとケンの肩に寄りかかった。
 胸の奥で、ゆっくりと願う。
 ――時間が止まればいい。
 この幸せな時間が、永遠に続きますように――。
 
 帰り道、空模様は急変した。
 突然降り出した雨に打たれ、二人が家に辿り着く頃にはびしょ濡れになっていた。
 玄関でケンは濡れたシャツを脱ぎ、タオルを手に取ると、チカの頭にそっと被せた。
 撫でるように濡れた髪を拭き、頬に触れて、雨粒を指先でそっとぬぐう。

「風邪ひいちゃうよ?」

 そう言って、微笑んだチカは自分の腕をケンの腰にまわす。
 ケンも同じように、柔らかな笑みを返してチカを引き寄せた。

「これで風邪ひかない?」

 互いに照れくさそうに笑い合う。
 その笑みの中に、心からの温もりが宿っていた。
 そのとき――
 ケンがチカの耳元で、吐息にまぎれるような囁きを落とした。

「……愛してる」

 言葉が、心にまっすぐ届いた。
 嬉しかった。
 幸せだった。
 でも同時に、少し怖くなった。
 その瞬間、チカの瞳に涙が滲む。
 思わず強くケンに抱きついた。
 それに気づいたケンが、そっと優しく問いかける。

「どうした?」

 温かい胸に顔をうずめたまま、チカは小さく呟いた。

「……幸せで、少し怖くなっちゃったの」
「大丈夫。ずっと一緒だから」

 ケンは、チカの体を力強く、けれどどこまでも優しく包み込んだ。
 胸の奥で、もう一度祈る。
 ――この幸せが、永遠に続きますように。
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