もしも願いが二つ叶うなら…

【 繋がる二つの想い 】

 [2年後]
 
 
【2009年3月2日(月)】
 
「いらっしゃいませ!」

 ジュンの張りのある声がエントランスに響くと、店内のスタッフたちが一斉に声を揃える。
 その言葉に込められたのは、単なる挨拶ではなく、希望の扉を開く合図のようだった。
 ケンから託された貯金と、あのフォトコンテストで得た賞金を礎に、チカとジュンは念願の美容室を立ち上げた。
 それは、たくさんの“笑顔”を生み出してほしいという、ケンの夢の続きを“再開”するための、小さな灯台だった。
 慌ただしさの中にも、どこか温もりの宿る空気が店内を包んでいる。
 笑顔と言葉が交差しながら流れていく時間は、気づけば風のように駆け抜けていく。
 壁に掛けられたアンティーク調の時計が、柔らかな音色で午後二時を告げたと同時に響く、心地よい聞き慣れた声。

「チカ! 受付までお願い!」

 ミサキが、いつものように明るい声でチカを呼んだ。
 その笑顔の奥に、どこか確信めいたものを感じたとき――
 チカは、来訪者がこの店を訪れた理由を、言葉より先に理解した。
 受付へと急ぐと、そこには一組の親子が立っていた。手には病院からの案内状が握られている。

「あの……病院の方から、この美容室で医療メイクというものを受けられると伺って……」

 声を震わせる母親に、チカは深く頷いた。

「はい。病院からお話は伺っております」

 母親の横には、中学生ほどの少女がいた。キャップを深くかぶり、大きなマスクで口元を覆っている。まるで心の扉まで堅く閉ざしてしまったかのようだった。

「この子……交通事故で顔に深い傷を負ってしまって……。その日を境に、言葉も表情もすっかり失ってしまったんです。最後に聞いた言葉は、“死にたい”……でした」

 震える声でそう告げながら、母親は目頭を押さえた。
 チカはそっと頷くと、少女の背に静かに寄り添いながら、医療メイク専用の個室へと導いた。
 扉を開くと――そこは、まるで真冬の朝に静かに降り積もった雪のように、凛とした純白の空間だった。
 窓辺からこぼれる柔らかな午後の陽光が、淡く温かな光を室内に満たしている。
 その光を受けるようにして、壁に1枚の額縁が飾られていた。
 額の中には、幾千ものネリネの造花が隙間なく空間を彩り、そのまんなかに静かに寄り添うように束ねられた二本の青い桔梗の花がそっと置かれている、ユウが撮影したあのケンの部屋の写真が、優しく微笑むように佇んでいた。
 そしてその額縁には、ひときわ輝きを放つプラチナの指輪と、金色のフープピアスが静かに添えられている。
 まるでケンがこの場所にそっと想いを託し、見守っているかのように……。

「はじめまして。私はチカっていいます。あなたのお名前、教えてもらえるかな?」

 少女は黙ったまま、視線を逸らしていた。

「じゃあ、まずはキャップとマスクを外してほしいんだけど、いいかな? 大丈夫だから」

 少女は一瞬ためらいながらも、無言のままキャップを外し、机に置いた。続けてマスクをゆっくりと外す。
 その下から露わになったのは、顔に残る深い傷跡だった。
 母親が書いたカウンセリングシートに目を落とすと、そこには“モエ”という名前が記されていた。

「モエちゃん。前にある鏡を、見てみて」

 鏡には俯くモエと、彼女に寄り添うように隣に座ったチカの姿が映っていた。
 けれど、モエは頑なに鏡を見ようとしない。
 チカはそっと彼女の肩に手を置き、目の前の鏡を見つめながら、静かに、優しい声で語り始めた。

「3年前……鏡の中のお姉さんを、色鮮やかに彩ってくれた人がいたの。その人がくれた色は、今でも私の中で色褪せることなく、あの日の光のまま、ずっと心に残ってる――」
 
 
* * *
 
 鏡に映るあの頃の私は、まるで無色透明な硝子のようだった。
 そんな私に、まだ知らない色彩を与えてくれた人がいたの。
 その日を境に、私の世界は少しずつ息を吹き返すように色づき始めた。
 ……違うかな。
 本当は、私の中に確かにあった色を、思い出させてくれたのだと思う。
 新たに彩られてゆく私の世界。
 日々、少しずつ――けれど確かに、その風景は鮮やかさを増していった。
 その頃からだった。
 心のどこかで、やわらかな音が響き始めたのは。
 穏やかで、包み込むような優しい旋律……
 それがどこから聞こえてくるのか分からずに、私はただ、耳を澄ませた。
 気づけば私は、静かに足を踏み出していた。
 その音を求めるように、伸ばした手の先を頼りに、一歩一歩、確かめるように歩き始めた。
 迷いながら、立ち止まりながら、それでも道を選び、分かれ道を越えて進んでゆく。
 そして――
 たどり着いたその場所には、優しい音色が流れ、温かな光が揺れ、心がそっと囁いた。
「ここにいたい」と。
 そのとき、ようやく気がついたの。
 私はずっと、自分の居場所を探していたのだと。
 心の奥底で、誰にも言えずに、ただ願い続けていたのだと。
 言葉にならなかったその想いが、ようやく輪郭を持ち始めたのだと。
 
* * *
 
 
 いつしかモエは、チカの言葉に静かに耳を傾けていた。

「目は二つあるから、良いものも悪いものも見える。耳も二つあるから、良いことも悪いことも聞こえる。手は二つあるから、良いものも悪いものも掴める。足も二つあるから、良い方向にも悪い方向にも進める。でも、口だけは一つしかない。どうして一つしかないと思う?」

 モエはチカを見上げ、小さく首を横に振った。

「それはね――“言葉”には、それほど強い力があるから。良いプラスの言葉も、悪いマイナスの言葉も、どちらもこの一つの口からしか出せないの。だからこそ、神様は“たったひとつ”しか与えなかったのかもしれない。本当に大切な想いだけをちゃんと選んで、ひとつの場所から、心を込めて伝えるために」

 チカは優しく微笑みながら、言葉を続けた。

「だからこそ、人は“願い”を言葉にして紡ぐの。心の奥から溢れ出した想いを、たったひとつの“口”に託して未来に祈るの」

 そう言って、チカはそっとメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。
 一文字、丁寧に――『叶』と書いた紙を、モエの前にそっと差し出す。

「ねえ、この文字、読めるよね。“叶える”っていう漢字。これね、よく見ると“口”と“+(プラス)”でできてるの」

 モエの瞳が、かすかに揺れた。

「つまりね、“口”から“プラスの言葉”を発すると、それが“願い”になる。そしてその願いは、やがて“叶う”ってこと。誰かに伝えてもいいし、自分自身に向けた言葉でもいい。でもね、心からの想いを、たったひとつの口で、そっと外に出すことが――最初の一歩なんだよ」

 モエのまつ毛が震える。頬に落ちる髪の影の向こうで、彼女の心が、ほんの少しだけ動いた気がした。

「マイナスな気持ちを心の中に抱えてしまっても、それは仕方のないこと。人はそんなに強くできてはいないから……。だから、誰かを頼っていいの。誰かの隣で、少しだけ肩を預けて、そっと寄り添ってもらうの」

 チカは、モエの瞳に優しさを映しながら続けた。

「マイナスの感情も、誰かと分かち合えばやがて循環して、言葉として口から出るときには、願いとなって、きっと幸せを運んでくれる。心を交わし、言葉で想いを届ける力を、人は持っているから」

 チカはもう一度、鏡に向き直る。

「鏡の前はね、自分と向き合える場所。心の奥にある素直な気持ちと向き合える場所。そして、鏡は“ほんとうの自分”を映し出してくれる。だから……一緒に見てみよう?」

 モエは戸惑いながらも、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに鏡の中の自分を見つめた。
 その視線は、怯えながらも確かに、自分自身を捉えていた。

「その瞳の奥にある痛みも、悲しみも、苦しみも、声にならなかった涙も、一番知っているのは――今、鏡に映っている、あなた自身」

 チカはそっとモエの手を取り、ぬくもりごと包み込むように握りしめ、静かに語りかけた。

「目を閉じて、心の声を聴いてみて」

 モエはチカの手を強く握り返しながら、ゆっくりとまぶたを下ろした。
 鏡の中の自分と対話するように、静寂のなかに小さな祈りが宿っていく。

「今、心の中に浮かんだ願い……それを言葉にできるかな?」

 モエの瞳がゆっくりと開かれた。
 その瞳は涙に滲み、頬を静かに濡らしていた。
 そして、震える唇から、かすかに、けれど確かな声で想いを言葉へと変える。

「……傷を……消したい。笑顔で……生きたい……」

 チカは、その言葉ごと、モエを優しく包み込むように抱きしめた。
 “ほんとうの自分”から紡がれた想いのすべてを、静かに受け止めながら――。

「その願い、叶えよう。私と一緒に、“これから”という未来を描こう」

 柔らかく、包み込むような声でそう囁きながら、チカは続けた。

「そして……鏡に映る、もう一人のあなたに見せてあげよう。“最高の笑顔”を」

 チカは知っていた。
 “涙”とは、未来の“笑顔”が生まれるまでの、静かな序章なのだということを。
 笑顔が生まれる前に流れる、“心のしずく”であることを。
 

 ガチャ―――
 静かに個室の扉が開く。
 モエの姿を目にした瞬間、母親は思わず両手で口元を覆った。
 かつて顔に深く刻まれていた傷跡は、見違えるほど自然に隠され、まるで過去ごと溶けて消えたかのように、優しい光に包まれた表情とともに和らいでいた。
 そこには、長く失われていた笑顔を取り戻した、新しい“モエ”が立っていた。

「お母さん……どうかな?」

 モエは少し照れたように微笑みながら、そっと尋ねた。

「モエ……すごく、すごく綺麗よ……」

 震える声に滲んだ母親の涙は、再び出会えた娘の笑顔に対する、“感謝のしずく”だった。
 その声は、まるで失くしていた春の陽だまりを見つけたかのように、あたたかかった。

「その笑顔……お母さんのところに行って、ちゃんと見せてあげて」

 チカが優しく促すと、モエは一瞬ためらいながらも駆け出し、母の腕の中へと飛び込んだ。

「お母さん……もう、死にたいなんて言わないよ。鏡の中の自分とね、ちゃんと約束したんだ……笑顔で生きるって……」

 その言葉は、再生の誓い。
 心の底からの決意が、柔らかな声に宿っていた。
 母と娘はしっかりと抱き合い、互いの涙をぬくもりで受け止め合った。
 それは、痛みを越えた先で見つけた、ひとつの希望の光だった。
 やがて母親はそっと涙を拭い、深々とチカに頭を下げた。

「本当に……本当にありがとうございました。案内状を書いてくださった病院の院長先生が仰っていたんです。この美容室には“医師”と同じ“師”の字を持つ、“美容の医師”――“美容師”さんたちがいるって。今、その意味が、ようやく分かりました」

 そう言って財布に手をかけようとした母親の仕草を、チカはすぐに制した。

「医療メイクは、無償なんです」
「いえ……でも、それでは……」
「それが、この美容室の基本思想を創った人が、心から願っていたことなんです」

 チカの瞳は、どこか遠くを思い出すように、優しく揺れていた。
 しばしの沈黙のあと、母親は穏やかな表情でチカを見つめ返す。

「素晴らしい方なんですね」
「はい。人生のすべてをメイクという小さな魔法に託し、人の心を笑顔に変えていった温かな人です。その手に、不思議な力が宿っているかのように――優しさの形を描いてくれる人なんです」

 チカが微笑みながら深く頷いたそのとき――
 静かに開いたバックヤードの扉から、ユウがカメラを手に現れた。
 そのまなざしには、やわらかな光が宿っている。
 まるで、誰かの想いをそっと掬い上げるように……
 そして穏やかに、優しくモエに語りかけた。

「モエちゃん、写真を撮らせてもらってもいいかな? その最高の笑顔を、見せたい奴がいてね」
「うん! 撮ってほしい!」

 モエは満面の笑みを浮かべ、レンズに向き直った。
 ユウは、かつてニューヨークでケンを撮り続けたあのカメラを構え、ゆっくりとシャッターを切る。
 レンズ越しに、今という奇跡の一瞬を、最高の笑顔を、ケンと一緒にふたりで覗き込むように――。
 写真を撮り終えると、チカは親子を見送るため、ゆっくりとエントランスへと向かった。

「お姉ちゃん、本当にありがとう! また遊びに来てもいい?」
「もちろん! またおいで。ここはね、もうモエちゃんにとって、もうひとつの居場所なんだから」

 モエは名残惜しそうに何度も振り返りながら、精一杯の笑顔で手を振った。
 チカも微笑み返し、大きく手を振り続ける。
 ――“最高の笑顔をありがとう”
 胸の奥から湧きあがる感謝をそっと込めて、深くお辞儀をすると、チカは夜空を見上げた。
 そこには、無数の星が瞬き、まるで遠いどこかで、大切な誰かが笑顔で見守ってくれているようだった。
 

 ねえ、ケン――
 私は今、メイクを通して、あなたと同じ想いを心で感じています。
 “自分が笑顔を持っていないと、誰かに笑顔を与えることはできない”
 “自分を笑顔へ変えてくれるのは、誰かの笑顔”
 ――“笑顔”
 それは誰もが纏うことのできるメイク。
 そして、誰もが可愛く、美しくなれる魔法。
 それが、あなたから教わった、メイクの真髄でした。
 今夜の夜空は、いつも以上に儚く、どこか懐かしいほどに綺麗で――
 その透明な煌めきに、自然とあなたのことを思い出しました。
 ひと呼吸するたびに、優しい風が肌を撫で、どこか懐かしい香りを運んでくる。
 まるで、あなたがすぐ傍にいると、囁いてくれているように。
 ねえ、ケン。
 今、あなたは何をしていますか?
 今、あなたはどこで、何を想っていますか?
 きっとあなたのことだから……
 この空の高みから、今日も私の姿を見守りながら、あの笑顔で微笑んでくれているんだろうね。
 覚えてる? あの日、あなたが私に聞いたこと――

『君は、願いが“二つ”叶うとしたら、何を願う?』

 “一つじゃなくて、二つ”
 あの時は、そんなこと考えたこともなかったから戸惑ったし、あなたは私の答えを聞く前に、背を向け去ってしまったよね。
 “もしも願いが二つ叶うなら……”
 結局、私はあなたの願いと、私の願い……二つとも願ったんだよ。
 
 あなたと出逢って、私の中に夢が生まれた。
 キャンプ旅行の夜、あなたが語ってくれた、あなたの夢だという医療メイクの店を美容師として支えること。
 そして、あなたを愛して、もう一つの夢が芽生えた。
 それは……あなたとの“永遠の愛”。
 今、その二つの願いは、たしかに叶いました。
 たくさんの人の支えがあって、あの時流れ星に願ったあなたと二人で見た夢、あなたと二人で思い描いたこの美容室を、こうして現実にできた。
 今、私はあなたの“夢の続き”を、あなたと共に歩いています。
 そしてあなたは――
 私への愛を、天国へ持っていってくれた。
 この先どれほどの時が流れても、決して色褪せることのない永遠の愛を、叶えてくれた。
 だからもう、雪が降る日も、あなたを想って涙を流したりはしない。
 あなたはいつだって、私の中に生きているから。
 もう流れ星を見ても、願いごとはしない。
 だって――
 私の願いは、すでに二つとも叶ったから。
 “またどこかで逢える”
 あなたが最期にくれたその言葉を、私はずっと信じている。
 その言葉を信じて、私はこれからも強く生きていく。
 顔を上げていこう。
 前を向いていこう。
 小さな光を、見逃さぬように。
 たとえ足がすくみ、立ち止まってしまっても。
 たとえ闇が夜を覆い、心が悲しみに沈んでも。
 顔を上げていこう。
 前を向いていこう。
 僅かな希望さえも、見逃さぬように。
 泣いて瞼が腫れた日も、涙が頬を濡らす夜も、私は顔を上げる。前を向く。
 そして、光を、希望を、もう一度見つけにいこう。
 そして、笑顔で、また歩き出そう。
 “笑顔”
 それが、あなたが私に教えてくれた、幸せのカタチだから――。
 
 その時――
 空から静かに、純白の粉雪が舞い降りてきた。
 月明かりに照らされた雪は、まるで光の粒となってきらめいていた。
 それはまるで、空を見上げる人たちを微笑ませるために、ケンが、空の高みから魔法のラメパウダーを振りまいているかのようだった。

「ケン……今年もまた、私のもとに逢いに来てくれたんだね」

 チカは、胸元の金のネックレスをそっと左手で握りしめる。
 そして、ケンのいる雪空を“笑顔”で見上げた。
 その薬指には、今も変わらず、あのプラチナの指輪が静かに、けれど確かに、輝いていた。


 この美容室は、吉祥寺に――
 たしかに、実在する。

 (完)
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