もしも願いが二つ叶うなら…

【 秘密 】

「起きて!」

 元気なミサキの声が、耳元で響いた。
 剥ぎ取られそうになる布団を、チカは寝ぼけ眼で必死に押さえる。

「もう九時だよ!」

 布団をポカポカ叩きながらミサキが言うと、チカは顔を出した。
 目元にはまだ眠気が滲んでいる。

「ジュンさんとケン君、もう朝ごはん済ませて、温泉行っちゃったよ」

 その名前を聞いた途端、チカは勢いよく飛び起きた。
 ――昨夜の出来事は、夢じゃない。
 はっきりと記憶に残っている。
 あの寂しくて、切ない背中。
 月明かりの下、海を見つめていた悲しい瞳。
 まるで夢のような現実。でも、“ふたりだけの秘密”みたいで、少し嬉しかった。
 ……秘密、といえば。
 チカは一瞬、タカユキの顔を思い出す。
 同じ美容室で働く同期で、背が高く、整った顔立ちをした男性。
 つい最近、告白されて付き合い始めたばかり。
 この旅行が決まった後のことだったから、「ミサキと温泉行ってくる」とだけ伝えた。
 何となく、言えなかった――自分でも理由はよくわからない。
 人並みに恋愛はしてきた。
 でも、追いかけられる恋愛ばかりで、自分から誰かに惹かれていくような、そんな刺激的で、ドキドキする恋はまだ知らなかった。

「お腹空いた!」

 チカが両腕をぐっと上に伸ばしながらそう言うと、ミサキは嬉しそうに何度も頷いた。
 遅めの朝食を済ませ、ふたりは最後の温泉を楽しもうと部屋を出た。
 温泉へと向かう廊下――そこはガラス張りで、目の前には海岸が広がっている。
 その向こうに、温泉から戻ってきたばかりのケンとジュンの姿が見えた。
 先を歩いていたチカは、思わず反射的にミサキの背中に隠れた。
 自分でも驚くほど、自然な動作だった。
 そんなチカの気持ちも知らず、ミサキは元気よく挨拶を飛ばす。

「おはようございます!」

 チカも続けて挨拶をしたが、それはほとんどミサキにしか聞こえないほどの小さな声だった。
 ケンはその声に気付いたのかどうか、軽く会釈を返してすぐに歩き去っていった。
 でも――それだけで、嬉しかった。

「そういえば昨日の深夜、ロビー行ってたよね?」

 “昨日のことは聞かないで”
 心の中で願ったが、ミサキの問いはその願いをあっさりと破った。

「チカ、途中でどこか行っちゃったよね?」
「えっ、あれは……その、おつりを忘れちゃって! だから取りに……」

 身振り手振りで必死に誤魔化すチカ。
 別にミサキに隠すようなことでもないはずなのに。
 ――だけど、あの夜の出来事は、自分の中だけに大切にしまっておきたい。
 そう、無意識に思っていた。
 やがてチェックアウトの時間になり、外へ出ると、昨日降った雪が少しずつ溶け始めていた。

「いい天気だ!」

 運転席から聞こえたジュンの声に、バッグを抱えたミサキが笑顔で頷く。
 雪解けの地面を歩きながら車へ向かい、ドアを開けたチカは、思わず言葉を失った。
 ――助手席にはミサキ。
 後部座席には、ケン。
 思いがけず隣り合わせた席に、一瞬戸惑いながらも、何とか平静を装って乗り込む。
 車が出発して間もなく、高速の入口あたりで渋滞に巻き込まれた。
 列は長く、まったく進む気配がない。
 バックミラー越しに、ジュンが眠るケンの顔を見つめる。

「昨日、寝られなかったのかな」

 問いかけたわけでもないその言葉に、チカが反応する。

「き、きっと疲れてるんですよ」

 慌てて出たその声は、思わず裏返ってしまった。
 そんなチカをちらりと見ながら、ジュンはわざと明るい口調で言う。

「悪かったな! せっかくいい旅館選んでもらったのに、ケンがずっとこんな感じでさ」
「何か……あったんですか?」

 チカは、眠るケンを起こさぬよう、小さな声で尋ねた。

「“海”に、いい思い出がなくて」

 それ以上、理由は聞けなかった。
 寂しげな目をしたジュンを前に、踏み込んではいけないような気がしたから。

「けどな、俺と飲んだり、人にメイクしてる時だけは……ちゃんと笑うんだ、こいつ」

 ――そんな姿、想像もできない。
 でも、見てみたい――その“笑顔”。
 いつの間にか、助手席でミサキも眠りに落ちていた。
 渋滞の車内は、少し静かで、どこか温かかった。
 
 三時間後――。
 ケンは一度も目を覚ますことなく、車は吉祥寺へと辿り着いた。
 エンジンの音が止まり、ジュンが後部座席に身を乗り出してケンの肩を軽く揺する。

「着いたぞ」

 その声に、ようやくケンがゆっくりと目を開けた。

「じゃあ、ここで解散にするか!」

 ジュンは両手を小さく振って、明るくそう言った。
 それに続いて、ミサキも笑顔で同じように手を振る。

「寝起きだから、足元に気をつけて帰ってくださいね!」

 チカはできるだけ明るく、冗談っぽく言ってみた。
 それが精一杯だった。
 本当はもっと言いたいことがあったのに、声にできなかった。

「ありがとう」

 ケンは短くそう言って、小さく頷いた。
 それだけを残して、ゆっくりと歩き出す。
 遠ざかっていく背中――どこか寂しげで、どこか切なくて。
 チカは目で追いながら、その背中から目を離せなかった。
 もっと話してみたかった。
 あの時の続きも、聞いてみたかった。
 何より――あの人の“笑顔”を、この目で見てみたかった。
 心の中では、何度も言葉を繰り返していた。
 選んでは飲み込み、また選び直す。
 胸の奥では、ドキドキという音だけが鳴り響いている。
 それでも――結局、口に出すことはできなかった。
 たったひとこと。
 たった、それだけの問いかけ。
 ――「また、逢えますか?」
 けれど、それは声にならず、冬の街に消えていった。
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