みだりな逢瀬-お仕事の刹那-
冷静さを取り戻したところで、背中を這う楓の指先が微かに震えていることに気づく。
「少し、離して?苦しい」
無言でかき抱く力が弱まったお陰で、彼の腕の中から顔を見上げた。
そうして自由のきく右手で、青白い顔色をした彼の頬に触れる。
私はこちらを見る小動物のような瞳に微笑みかけ、宥めるように冷たい頬を撫でていく。
「大丈夫、……大丈夫だから」
辺りの一瞬のざわめきは当然だろう。だが、そんなものはどうでも良いこと。
常日頃、経理の楓と秘書として働く私は、社内では必要最低限の会話しかしない。
傍目にはとても親交があると感じられなかったはずだ。当の私たちがそれを忠実に守り、平穏に仕事してきたのだから。
――それゆえにここへ楓が来ていること自体、異常なのだ。
行動や表情もまた然り。緊急事態だと分かるからこそ、早くこの場を脱する必要があった。
「どうしたの?」
だが何度か尋ねてみても、楓は私の頭上で首を小さく振るばかり。これでは埒が明かない。
“場を考えて早く言えよ”と急かすように、彼の背中を遠慮なくバシバシ叩く。これも愛情あってのことだ。
すると、背中に回った手は解かれないものの抱く力を弱めてくれた。
俄かに安堵した私がゆっくり首を傾けると、秘書室の皆さんの姿が視界に入った。