他人任せのジュークボックス
 もはや男の視線を遮るものは何ひとつなかった。

 射るでもなく、貪るでもなく、まるで淹れたての紅茶の湯気でも眺めるように見つめる先。

 そこには頬を、いや肌全体を淡い紅色に上気させた少女が彼女の身体を美しくかつ艶めかしく映えさせる純白のソファに横たわっていた。

 そうつまり、一糸纏わぬ姿で。

「…………」

「…………」

 吹き抜けのあるアトリエ、その上方に広くしつらえた天窓から射し込む陽光が、音もなく舞う塵(ちり)を白銀の妖精に見立てさせる。

 ふたりの間に会話は、ない。

 このアトリエに入るときも、入ってからも、おそらくは――この場を後にするその瞬間にすらも。

 しかしながら彼らは会話をする。

 男の指先で。

 カンバスに黙々と筆を走らせる、その指先で。

 そしてその“言葉”に少女は時折、こくり、と頷くかのようにしてソファを軋ませて応える。

 筆の音。

 ソファの軋み。

 それが、この場のすべて。

 それが、ふたりのすべて。

 何人も入り込むことの出来ない、ふたりだけの世界。

 しかし、その時間もやがて終わりが告げられる。

 男の指先が動きを止めたのだ。

 そこにやはり言葉による合図などはなく。

 けれども申し合わせたかのように男が画材を片付け始めると少女は立ち上がり、部屋の脇にあるスツールの上に綺麗に畳んであった制服を身に着け始めた。

 急ぐでもなく、もたつくでもなく、滑らかな動作で衣服をまとう少女。

 先ほどまで全てにおいて露わであった肌が1枚、また1枚と布によって世界から隔絶されていく。

 そして最後、制服の“タイ”を結んだとき、

「っ────」

 一言にもならない声を、少女はこぼした……

 男はカンバスに向き合ったまま。

 ただの一度たりとも少女を振り返ることはなかった。

 振り返ろうとはしなかった。

 少女がアトリエを去る、その瞬間でさえも。

 扉がかすかな軋みを立てて閉じていく。

 少女の嗚咽を隠すように。

 男は天井を見上げて少し、息を吸い込んだ。

 テレピン油のにおいに混じってかすかに──



──春の香りがした。

< 4 / 14 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop