絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 

客を選んではいけない

「あ、そうだ」
「何です?」
 今思えば、あの時の宮下の声は不自然だった気がする。前もって用意していた言葉に演技を加えたかのような、そんな声だった気がする。
「佐藤さん……最近どうだ?」
「え?」
 何事もなく、スタッフルームから売り場へと急ぐ廊下で切り出す内容としては、あまりにも不自然な気がしたが、かといって、それが店長室でするような、もしくは、改めて電話でするような話でもない。
 おそらく、2人にとって、今のタイミングが一番良かったのだろう。
「話ししてないか?」
「え、はい……私語はほとんど」
「そうか。ならいい」
「……じゃあ、私、仕事戻ります」
「ああ」
 佐藤浩二。現在AVコーナーの部門長、40代くらいのオジサンだ。そういえば、年齢も詳しいことは知らない。
「さってと……」
 香月は、宮下から離れるなり、気を取り直すことにする。6月はまだ忙しさに少し余裕があるが、7月までにしておかないといけないことがたくさんある。まず、今は稟議書を2枚書いて、商品関係報告書を5件書く。それから……あぁ、稟議書ファイルを新しい物にしなきゃ……。
 と考えながら階段を降りていたところに、
「香月さん、現在地はどこですか? 映像コーナーで男性のお客様がお待ちです」
 トランシーバーのイヤホンから聞こえる。
「了解、今階段です。すぐに行きます」
 といってもここから走ると1分はかかるだろう。というか、男性のテレビ買うような知り合い、いたかなあ……。
 香月は普段大物の接客はほとんどしない。それは単に知識がないからだ。今はその知識を高める必要も特にないように感じていたので、自分で販売はせず、極たまに友人や知人に販売員を紹介する程度なのである。
 ぶつからないよう極力注意しながら、小走りで現場へ向かう。
「すみません! お待たせいたしました!」
 後姿から確認していたが、どうも知り合いではない。
「あ、いや。すみません」
 やはり、見たことのない。黒づくめの男は丸いサングラスとキャップをかぶっていて顔がよく分からない。それに、上下揃いらしい黒のジージャンとジーパンに中は白いTシャツ。年は30後半くらいか。一瞬で観察を終えて会話に集中する。
「香月さん、こちらの方、shの60型にしようかどうか迷われています」
 副店長の一人、仲村がこちらをじっと見ながら喋った。知り合いか? と聞いているのだ。
 香月は、難しい顔をして少し首を傾けた。
「あのぉ……この60型前から気になっていたのでとりあえず一台。次の二台目の時は新しいのが出てからでもいいかなぁって思ったりして(笑) 」
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