優しい手①~戦国:石田三成~【完】
――寝室は、仄かに甘い香りがした。


女子の使用人を1人も雇っていないこの屋敷がこんな芳しい香りがするはずはない。


「ああこれは…桃姫の香の匂いですね」


そう言った幸村が思いきりその空気を吸い込んで、頬を赤らめた。


「本当に…ここで俺と暮らしていたんだな…」


「ええ…。とても仲睦まじく、思い合っておられました。三成殿、明日にでも発ちませぬか?実は拙者…胸騒ぎが止まらないのです」


――幸村の心が警鐘を鳴らしていた。


近々、謙信が動きそうな気がして…


「俺はまた桃姫のことを思い出すことができるのだろうか」


「ええ、必ず思い出せます。さあ三成殿、明日から強行軍になります故、今宵はゆるりとお休み下さい」


大山がいつも桃と三成が共に眠っていた床を敷いた。


それを三成はじっと見つめていたが…その上に座ると何だか急にせつなくなってきて、胸を押さえる。


「三成殿!?どこか痛むのですか!?」


「…いや…」


三成自身もそれに動揺し、視線をさ迷わせていたが…大山と幸村はそっと顔を見合わせ、部屋を出て行く。


「夕餉の支度が整いましたらお運びいたします。それまではお眠りになって下さい」


「…ああ」


横になったのを確認して部屋を出ると、大山は目じりを指で拭いながら荒々しい音を立てて台所へ向かう。


「幸村殿、三成様をお頼み申し上げまする。必ずや桃のことを思い出して頂きたい…!」


「…本当はもっと三成殿を休ませてあげたいのですが…越後まで耐えてもらいます。殿と桃姫がどうお暮しになっているのか、気になります故」


――その間三成は、布団からも香る“桃姫の香り”を嗅いで、未だかつてないほどに心が落ち着いていた。


「桃姫…」


顔も声も思い出せないというのに、焦がれる。


本当に俺を想ってくれていたのだろうか?


ならば、越後に着いた時…桃姫を忘れてしまった俺のことを、どう思うだろうか?


まだ、想ってくれているだろうか?


俺は、その想いを取り戻すことはできるのだろうか?


――不安ばかりが増して、また香りを吸い込むと…瞳を閉じた。
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