Alien執筆言い訳日記(ブログ的な何か)
4月11日 積極的な堕落




 二次創作に手を出して思うことはいろいろあるんだが、以前書いた『二次=ゲーム』理論の続きのようなことを、いつもつらつら考えている。

 それを語るには、まずオリジナルの創作とは無から有を生み出す行為であって、それが発想する能力と生み出すエネルギーのポテンシャルの高さに依存しているということを知っていなければならない。もちろん、オリジナルと言ったって、オリジナルの顔をしているだけで、今はやりのジャンルのはやりのシチュエーションとはやりのキャラ設定を組み合わせて、「これって盗作じゃねーよな…」的な、「バナナいちごクレープ(ヤクザ彼氏)」と「いちごバナナクレープ(彼氏実はヤクザ)」は違うのよ! と言いはるような作品現実もあるわけだが、そんなことはどの芸術や芸能にも古今東西どこにもある話であって、その多様さが文化の厚みとでもいうのだろう。久保田利伸がブレイクしたそのすぐ後を追って中西圭三がエピゴーネン*みたいにデビューしてきたのをイネージしていただければおわかりかと思われる(例えが古いんだよ)。

 *エピゴーネン:(ドイツ語: Epigonen)は、文学や芸術の分野などで、優れているとされる先人のスタイル等をそのまま流用・模倣して、オリジナル性に欠けた作品を制作する者を指す。「模倣者」、「亜流」、「身代わり」。現代において「パクリ」と言われるものも、用法的な意味合いとしてはこれに極めて近い。(wikiまるっとコピペ→理研かよ)

 実際私のような創造力貧困者がゴリゴリのオリジナルやるのって、ほんとエロスと体力・気力がないと出来ません(←エロスは必須条件)。でも、書いたものが自分に与える影響力の大きさを見ると、それは一目瞭然であって(間違っても、他人様に与える影響力ではない!)、誰かのオリジナルを好きになり、それをネタにお手軽な執筆と妄想の快楽を手っ取り早く手に入れるということは、そこまでのダイナミズムは期待すべくもない。

 とはいえ、なぜそのような不毛なことをこんなに一生懸命やるのかというと、それはもう、心を奪われたオリジナルへの、リスペクトとオマージュが根底にあるからだ。原作だけじゃ足りない。もっと欲しい。そこにはそんな貪欲もあるだろう。自分の内面の何かを変えるとか、いらないものを捨てるとか、さらなる高みへ昇華する、とかなど知ったこっちゃないのだ。もう、このオリジナルを味わい尽くしたい。もっと見たい、見たいものを見たい、見せてくれないなら、もういいさ、自分で書くわ。そんな強い欲望…これはなんだろね。愛なんだろうな。それも永遠に一方通行の。届かないから届きたいんだろうな。二次元には二次しか届かない(←名言)。永遠の片思い。ならば、僕が君を書く。創造性に欠かせないエロスの供給源は君だ。だから書き続けられる。気が済むまで…片思いが昇華されるまでね。

 おお、そういうことか。こんな風に書いてみるのも明確になる。知ってはいたが、自分が正直なんでハマってるのかあんまり分析してなかった。最近、青エクの雪燐に執着がなくなったのは、自分の中で両思いにならないはずのあの兄弟が(圧倒的に雪男の片思いですよ)、不確かではあるが、互いの思いを伝えられた(←書いてて自分のお馬鹿さ加減に呆れるわ)っていうランディングを見たからだよね。気持ちが一段落したんですよ。思えば、この片思いは、実際、雪男→燐という関係に似てるな。片思いの行方を雪男に託し、燐に振り向いてもらったから満足なのか。

 …ってことは実は雪男愛だと思っていたのが、実は燐愛だったのか俺。道理で、雪男目線で息を吐くように物語れるわけだ。なんか最後に自分に爆弾投下された気分です。ぐああ。









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