春を待つひと
 東雲さんがひらひらと手を振るので、私は遠慮なく軽い会釈だけを残して自宅へと体を滑り込ませた。扉を閉めて鍵をかけると、一拍置いて同じ音が外から聞えた。マイペースな靴音が、こつん、こつん、と遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなるのを待ってから、私は靴を脱いだ。今の瞬間まで忘れていた疲れがどっと溢れだし、足がぐんと重くなる。
 荷物をテーブルの上に放り投げ、ソファに体を預けた。コートを脱ぐのも面倒臭い。見慣れた天井を仰ぎ、今しがた聞いた名前を反芻する。
 東雲さん。東雲。そういえば、下の名前を訊き忘れた。
 まあ、明日にでも聞けばいいや。どうせ明日からは隣人なんだから。
 重たくなった瞼を下ろし、緩やかな呼吸を繰り返す。このまま眠ってしまいそうだ。まだ、化粧も落としてないのに。けれど、意識が遠のく。抗いがたい睡魔が、私を足元から浸食していく。

 意識が途絶える、その直前。
 東雲さんに貰った言葉が唐突に脳裏をよぎった。

 そういえば誰かに「おやすみ」なんて言って貰ったのは、どれくらいぶりだっただろうか。
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