春を待つひと

 私が紙袋を見ながらそう言うと、シノノメさんが苦笑いを零しながらそれを軽く掲げてみせてくれた。
 手提げ紐の軋む音がする。きっとこれ、相当重たい。

「うん。御近所のご婦人方がくれたんだ。今晩の夕飯には困らなそうだ」

 ああ、なるほど。妙に合点がいき、私は彼の顔をまじまじと見上げながら3度に渡って頷いた。これだけの良い男が近所に越してきたとなれば、確かに近隣の女性たちは放っておかないだろう。
 しかも見たところ独り暮らし。
 挨拶代わりにと彼を餌付けるには好都合だ。

 そこまで思考してから、ふと思い出して彼の左手にさり気なく視線を送る。良い男には大体既に女がいるものだが、彼の左手には何も輝くようなものは着いていない。

「奥さん、いないんですか」

 それとなく尋ねると、彼は左手をダウンジャケットのポケットに仕舞った。隠されたのか、タイミングが良かっただけなのか。その仕草があまりにも自然で、私には彼の本心が読み取れなかった。

「いたよ。昔はね」

 涼しげな声で、さらりと。
 まるでなんともないことのように言うものだから、私は驚いて彼の目を見上げた。しかしそこには先程と変わりない笑顔が湛えられている。

「時間をとらせてすまなかったね。また今度、時間がある時にでも」

 今しがたジャケットに仕舞った左手を軽く掲げ、彼が微笑む。
 ああ、かわされた。
 そう悟るも、彼を引き止める理由もなければ奥さんについて問いただす理由もない。そしてついでに、今の私には時間もない。
 こうして他の奥様たちもかわして来たのだろうなと思いながら、私は軽く頭を下げ、玄関扉に鍵を掛ける。
 そしてその鍵をコートのポケットに仕舞い、軽く駆け足でその場を去った。
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