奥さんに、片想い

「なにが以後気をつけて、ですか。高原さんに以後なんてないじゃないですか。結婚退職するんだから。もう適当でもいい気分になっているんですよ。だから係長も甘く見過ごして」
 僕は振り返り、彼女を見据えた。
「僕はいつもと同じだけれど」
「そうですか? どうせ辞める人だから怒らなくてもいいとか思っているんでしょ」
 というか。僕が彼女達に怒鳴って叱りつけたことなど一度もない。なのに『そこが係長のいけないところなんだと』言いたげな落合さんの目が鋭く向かってくる。
「係長が甘いから、彼女も気が緩んだんですよ。私は高原さんのミスで二十分もタイムロスしたんですよ」
「お互い様じゃないか。落合さんのミスを他のコンサルオペレーターの誰かがフォローしてくれていることだってあるんだから」
「それでも『すっぽかし』は大きなミスじゃないですか!」
 意地でも絡む彼女の真意はなんなのか。僕が皆の目の前で『なんてことをしてくれたんだ』と愛ちゃんに叱責することなのか。
 あまりにも子供染みた願望。幼稚過ぎるからこちらでどう応対してもどうにもならず、こちらが譲るまでは事が収まらないような気迫を感じる。
 僕はいつかの妻の言葉を思い出していた。『年下と喧嘩したら、年上はどうしたらいいと思う?』。これは年齢のことじゃない『幼稚な人と喧嘩したらどうしたらいいと思う?』だ。ここで僕が噛みついたら彼女は『大人げない』とか『愛ちゃんを贔屓した』とか、今度はそこをポイントに攻めてきそうだ。むしろそれが目的か。僕の揚げ足をとる為に『はやく怒ってよ』と誘い出しているような気もする。
 こんな幼稚な罠にはまるわけないだろ!
「インコールに戻って」
 いつまでもこちらを睨んでいる落合さんに、僕は平然とした顔で告げる。
 愛ちゃんはもう気を取り直してヘッドホンを装着、コールを受けられるようマウスを手にした。
「どうしても。私の言い分なんて、信じてもらえないんですね」
 気強い彼女の小さな呟き。席に戻ろうとした僕は立ち止まり、そして愛ちゃんはヘッドホンをしたまま、まだそこにいる落合さんを見上げた。
 あの気強い彼女が今にも泣きそうな顔で震えていた。
「係長は知らないかもしれないけど。高原さんの結婚相手、元々彼女がいたのに高原さんのためにその彼女と別れたと知っていますか。その女性、本部にいる高原さんの友人なんですよ。私、本部に知り合いが多いから知っているんです。高原さん友人から盗ってしまったんですよ」
 僕は目を見開き、つい……愛ちゃんを見てしまった。
 それどころか、彼女の周りの女の子達も一気に愛ちゃんを見た。今度は愛ちゃんが震えるように首を振る。何か言いたげで、でも、言えず呆然としている。つまり『図星』ということらしい。

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