リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
「あのな。離婚だの、婚約破棄だのに、すっきり爽やかなものがあるわけねーだろ。その手のものは、たいてい、ドロドロになるっていうのが相場なんだ」

牧野の放った婚約破棄というその言葉に、明子の胸がざわついた。
まさかと思いつつ、また、牧野を窺い見る。
そんな明子の視線に、牧野は小さく一つ鼻を鳴らした。


(なんで?)
(なんで、あなたまで、その話を知ってるのよっ)


あの当時、親しくしていた数名の女子社員に、プロボーズされたことや婚約破棄に至るまでの経緯を、飲みに行った席上で明子は話した。
誰かに聞いてもらうことで、気持ちを楽にしたかった。
けれど、数日後には、その話はかなりの数の女子社員の間に広まって、長いこと、噂の的にされていた。
それがいっそう明子を落ち込ませ、心だけでなく、体までをも憔悴させた。

しかし、そのころの牧野は、ようやく決着した離婚調停にボロボロだった時期のはずだ。
明子のことを気に掛けるような余裕など、なかったに違いなかった。
誰かが、あえて、その話を牧野の耳に入れたとしか思えなかった。
どこかの誰が、明子の話を面白おかしく吹き込んだのかと思うと、明子は悔しさに歯噛みした。


(不覚!)
(一生の不覚!)
(どうして、人に話したりしてしまったのっ)
(面白おかしく、広められてしまうだけなのにっ)


天を仰ぐ思いで、明子は己の浅はかさを罵りながら、牧野にまた嫌味たっぷりになにか言われるのだろうと予想して、体を固くして応戦する態勢を整えた。
しかし、明子のその予想に反して、牧野はそれ以上その話に触れることなく、木村との話を続けるだけだった。

「やっぱり、慰謝料とか、請求されたんですか?」
「まあな。向こうが浮気した結果の離婚なのに、浮気の原因は夫にあるとか言って、とんでもない慰謝料をふっかけてきたんだからな。さすがにカチンときて、裁判でもなんでもやってやらあってな」

初めて聞いた牧野の離婚にまつわる話に、明子は思わず、目を見開いた。
性格の不一致などという、そんなありふれた言葉で片が付くものではなかったのかと、驚くしかなった。
しかし、この場で驚いているのは明子だけで、松山も木村も、沼田でさえも、牧野の話をなるほどと相槌を打つようにして聞いているだけだった。
その様子に、どうやら離婚の理由は秘密にされていたわけではないらしいことを、明子も理解した。
ならば、どうして、性格の不一致などと言う曖昧な理由が、まことしやかに流れたのかしらと、明子はその事にやや訝しさを感じながらもそれは口にせず、牧野と木村のやり取りを静かに聞いていた。

「すごいですねえ。そんな請求できるもんなんですね」
「普通は、不貞行為を働いたほうが、訴えられて請求されるもんなんだよ。それだけ、普通じゃねえことで、調停までしたんだよ、俺は。もう、あの泥沼を知った男に、セクハラだろうがパワハラだろうが、訴訟を起こされたところで、怖いもんなんざあるか」

やれるもんならやってみろと言わんばかりの牧野の口調に、明子の闘争心は失せた。


(へいへい)
(もう、そんな訴訟を起こす気力も萎えましたよ)


そう毒づいて、明子は空になった弁当箱を、テキパキと片付け始めた。
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