高天原異聞 ~女神の言伝~

 美咲は一瞬耳を疑ったが、はっと我に返る。

「からかってるんでしょう?」

「からかってないよ。真剣に、美咲さんのこと好きだよ」

 声音が変わる。

「美咲さんに初めて会った時、ずっと会いたい人に逢えたような気がしたんだ」

 いつもの穏やかな表情が、怖いくらい真剣になる。

「美咲さんもそう思わなかった?」

「…そんなこと」

 否定しようと思ったが、できなかった。

「思ったよね。だって、美咲さん、俺のこと見て驚いた顔してた。泣きそうな顔、してた」

「……してないわ。大体、あなた年下でしょう? しかも、勤めてる学校の生徒じゃない」

 慎也に背を向けて、足早に去ろうとした。
 だが、慎也のほうが早かった。
 美咲の腕を掴み、住宅の間の塀と塀の狭い隙間に美咲を押し込んだ。
 そのまま自分の体も割り込ませ、美咲を塀に押し付けるようにし、逃げられないようにした。

「ちょ――放して!」

「ダメ」

 身体を密着させられて、美咲はそれ以上動けない。
 顔を上げると、慎也の顔がすぐ近くにあった。
 咄嗟に顔を背ける。
 だが、頬に触れるほど慎也の顔が近づき、低く囁くように肌に響く声に、それ以上抵抗できなかった。

「俺のこと、学生とか年下とかってだけで、遠ざけないでよ」

 ぞくぞくした。
 身体の力が抜けるように。

「美咲さん、こっち向いて」

「……だめ……」

 慎也の唇が、自分の唇のすぐ傍でささやいている。
 少しでも動けば、唇はたやすく重なるだろう。

「キスしたい。こっち向いてよ。向いてくれたら、今日はこれ以上我儘言わないで大人しく帰る」

「やめて、こんなところ人に見られたら……」

「誰も来ないよ。来ても、構わない。美咲さんがこっち向いてくれるまで、俺は待てる」

 塀と背けた頬の間に慎也の手が差し込まれる。

「……」

「美咲さんとキスしたい。させて――」

 背筋が甘く痺れる。
 頬を愛撫するように撫でられて、美咲は、今度はその手から逃れるように顔を背けた。
 慎也へと。

唇が、重なった。


 その瞬間、泣きたくなった。
 わけのわからない感情に。
 ずっとこの時を待っていたように。
 このぬくもりを感じるために、生きてきたように。

「――」

「――」

 一度離れた唇が、もう一度覆いかぶさるように熱っぽく重なる。
 歯列を割って舌が入り込む。
 抵抗もできずに舌が絡み合い、探られる。
角度を変えて、何度も慎也は美咲の口内を探り、優しく翻弄した。
 長いような、それとも短いような時間が流れ、やがて慎也は美咲を抱きしめていた腕から力を抜いた。
 我に返ったように美咲は慎也を押し退けて狭い空間から出る。
 幸い路地には人の気配は全くなく、美咲はほっとすると同時に震える足を足早に動かして大通りへと歩き出す。

「ごめんね、美咲さん」

 背後からかかる声に、思わず足を止めて振り返る。
 慎也は美咲を愛おしそうに見つめていた。

「でも、好きだよ。早く、俺のこと好きになって」

 胸が高鳴る。

「――」

 返事もできずに、美咲は走って自分のアパートの扉の前に来た。
 震える手が、鍵を開けるまで、ほんの少しのはずなのに、とても長く感じられた。
 中に入って、アパートの鍵を閉めると、電気をつける。
 そのまま、玄関に座り込んだ。
 唇にも舌にも、さっきまでの熱く甘い感触が残っていて、体を震わせる。

 俺のこと好きになって。

 最後の言葉が頭を離れない。

「……遅いわよ」

 認めたくなんかなかったのに。
 もうとっくに、好きになっていた。





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