高天原異聞 ~女神の言伝~

 時計に目をやると、すでに日付が変わっていた。
 四時間近くも意識がなかったのだ。
 身体がひどくだるく、頭が重かった。

「シャワー、浴びたい。身体を洗いたいの」

「わかった。お湯、出してくるよ」

 慎也が、そっと身体を離してバスルームへと向かった。
 美咲は掛け布にくるまったまま身体を起こし、着替えを持ってキッチンで立ち止まる。
 明かりがついていなかった。
 脱衣所からもれる明かりで歩けないわけではないが、美咲は明かりをつけた。
 そして、そのまま脱衣所へ向かう。

 闇が怖かった。

 バスルームから慎也が出てくる。
 開いたドアからは白く湯気が出ていた。

「何かあったら呼んで、すぐに行くから」

「ええ……」

 脱衣所のドアが閉まると、途端に不安になる。
 呼び戻したい衝動に駆られるが、我慢する。
 掛け布を落としてショーツを脱ぐと、温かなシャワーを頭から浴びた。
 いつものように髪を洗い、それから洗顔用の石鹸を泡立てる。
 顔を洗い流し、ふと胸元に視線を落としてぎょっとする。
 慌てて曇った鏡を手で拭い、胸元を見る。
 そこには、見知らぬ男がつけたであろう鬱血の痕が散っていた。

「……いや……」

 美咲は慌ててスポンジにボディーソープをのせると、赤く残る痕を擦り落とす勢いで洗い始めた。
 もちろん、そんなことで消えるわけはない。
 何度擦ってもとれない鬱血の痕に、美咲は堪えきれずに胸を隠すように手で覆い、泣き出した。
 慎也ではない男に触れられたことで、自分が穢れたような気がした。
 服を脱がせたのが慎也なら、当然この痕も見られただろう。
 どう思われただろう。
 このまま、消えてしまいたい。
 声を殺して、美咲は泣いた。


「美咲さん、大丈夫?」

 脱衣所のドアが開いて、バスルームの薄いドア越しに、慎也が声をかけてきた。

 シャワーの音に紛れて、美咲は何とか大きく息を吸い、普段通りに答えた。

「大丈夫。すぐあがるわ」

「わかった」

 脱衣所のドアの音が閉まるのを確かめてから、美咲はもう一度顔にシャワーをかけ、身体を流し、お湯を止めた。
 胸元を視界に入れないようバスタオルで手早く身体を拭き、下着を身につけ、部屋着を着る。
 新しいタオルで髪を拭き、軽くドライヤーをかける。
 髪の水分が飛ぶのをぼんやりと感じながら、美咲はふと意識を失っている間のことを考えていた。
「――」
 たくさん、夢を見ていた。
 建速が自分達の前世だと言った、男神と女神の夢を。
 そして、別な女神の夢も。

 なぜ、二つの夢を見るのだろう。

 そして、どちらの女神も、不幸だった。
 愛した男に裏切られて。
 そして、自分は――?

 自分も、そうなるのか。

 行き着く思考に、ドライヤーの熱と裏腹に、心が冷えていく。
 視界が、涙でにじんだ。
 頭を強く振ると、ドライヤーを止めた。
 簡単に櫛で梳かして脱衣所を出る。
 部屋のベッドサイドに、慎也が背を預けて座っていた。
 美咲を見て立ち上がるのと、美咲が慎也へと駆け寄るのは同時だった。
 慎也にしがみつくと、強い力で抱きしめ返してくれる。

「具合、悪くない?」

 しがみついたまま、美咲は首を横に振った。

「もう寝よう。明かり消すよ」

 その言葉に、美咲は悲鳴のように叫ぶ。

「いや、明かりは消さないで!」

 恐怖に震える美咲に、慎也は宥めるように背中を撫でる。

「わかった。明かりはずっとつけておくよ。美咲さんが眠っても。それでいい?」

 慎也の胸に顔を埋めたまま、美咲は頷く。
 明かりをつけたまま二人でベッドに入る。
 慎也は眠るまで、美咲の背を優しくさすってくれた。
 抱きしめられても、抱きしめても、いつか引き離されそうで、美咲はいっそう強くしがみついた。





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