高天原異聞 ~女神の言伝~

 利用者もまばらな金曜日の午後、館内のカウンターで、美咲は何度目かの溜息をついた。
 今日は、一学期の終業式のため、学生は全くいない。
 午前中で授業は終わり、帰ったのだ。
 慎也は約束通り、夏休みを美咲とともに過ごすために、着替えを取りに自宅へ戻った。
 今日から夏休みが終わるまでは閉館時刻を早めて五時半とするため、見計らって迎えに来ると言ってくれた。
 約束よりはいつも早めに来るから、多分、もうすぐ来るだろう。
「――」
 もう一度、美咲は溜息をついた。
 顔を上げると、館内の中央に聳える太い柱が見える。
 それは、五日前に見たように、今も淡く光りながら神々しい気――神気で揺らめいている。
 普通の人間には見えないというその揺らぎは、美咲の夢の中の天の御柱と似通っていた。
 神霊の宿る柱――それが、神代に伊邪那岐と伊邪那美が降り立った天の浮橋へ続く、二神が住んでいた八尋殿へと通じているという。

 失われた神代を甦らせる。

 そんなことが本当にできるのだろうか――?

 美咲は五日前のことを思い出していた。





「天の門が開き、天の浮橋が架かった――」

 建速は、慎也と美咲の前まで歩いてくると、すっ、と膝をついた。

「この柱は、伊邪那岐と伊邪那美の住んでいた八尋殿の天の御柱と繋がっている」

「――伊邪那岐と伊邪那美? それって、日本の神話に出てくる國産みをした神のことだろ?」

 慎也が訝しげに問う。
 夢の中である程度説明を受けていた美咲はともかく、慎也には初耳だったらしく、建速を見る目は厳しいものがあった。

「そうだ。それがお前達の前世だ。慎也が伊邪那岐で、美咲が伊邪那美だ。美咲はお前と出逢ってから夢を見るらしいが、お前はどうだ? 何かそれらしき記憶や夢を見たりするか?」

「そんなのない。あんた、真面目に言ってるのか? 俺達が伊邪那岐と伊邪那美なら、あんたは誰だ?」

「俺の名は、建速須佐之男。三貴神の内の最後の神――」

「スサノオ――あの、八岐大蛇《やまたのおろち》を退治した?」

「ああ――もっとも、実際にはお前達の物語にある頭の八つある大蛇ではないがな」

 建速は苦笑しながら言った。

「お前達が知っている神代の物語には、偽りも多いが、本質を捉えてはいる。俺は伊邪那岐の意志を継ぎ、伊邪那美を求めて豊葦原に天降った荒魂だ」

「あらみたま?」

 今度は美咲が問う。

「命を構成する要素だ。荒魂と和魂。どちらが欠けても、不完全な存在だ」

 美咲は建速の言葉に耳を疑う。

 あまりにも完璧な存在に見える建速が不完全とは――?

 内心を読み取ったかのように、建速は笑む。

「全ての存在は相反するものの調和から生《な》るんだ。陰と陽、正と負、光と影、男と女。ただ一つから生まれるものは調和として成り立たない。神もそうだ。ただ独り神から生りませる俺は荒魂しか持たない。だからこそ、神としては不完全なんだ。そう見えなくてもな」

 建速は肩を竦めると続けた。

「伊邪那美が神去ってから、世界を構成する流れが世界の重なりを緩やかに引き離した。神代は人の世を離れ、高天原も黄泉国も豊葦原とは異なる領界となった。三つの領界が引き離されたことで、我々の神威も、現象しなくなり、強い神々は眠りについた。弱き神々は生と死を黄泉返りながら繰り返すことで、只の人間となり、その人間によって辛うじて記憶に名を留める神々は封じられた。あらゆる力が封じられた。そうして、神代は終わったのだ」

 建速は美咲の手を取った。
 そして、真摯に乞うた。

「どうか失われた神代を現世と繋いでほしい」

「繋ぐって、何をするの?」

「簡単だ。八尋殿に行けばいい。そこで交合えば、高天原と豊葦原の中つ国が繋がり、天照と月読が降臨できる。高天原の昼と夜の統治者が天降れば、天津神々も全て、忘れ去られた神代が完全に甦る」

「まぐわうって――」

 その意味を理解して、美咲は顔を赤らめる。
 慎也に視線を向けると、慎也も意味を解しているらしい顔つきをしていた。

「伊邪那岐と伊邪那美がそこで初めて交合ったとき、太陽が産まれた。次に、月が」

「天照と月読は、最後なんじゃないの?」

「彼女達は、神霊だ。現象としての太陽と月は、最初の交合いですでに産まれていたが、神霊が宿らなかった。最後に生まれたのが、その憑坐となる特別な神霊なんだ。
 黄泉での穢れを落とすために、伊邪那岐は禊をした。その時に産まれたのが俺達三貴神だ。左の涙から天照の神霊が、右の涙から月読の神霊が、そして、嘆く吐息から俺が産まれた」

 祝詞にもなっている伊邪那岐の禊ぎを、美咲は思い出す。
 伊邪那岐の悲しみから生まれた建速の真摯な眼差しには、偽りはなかった。

「どうか俺の願いを叶えてくれ。神代を完全に甦らせてくれ。あんたと慎也にしかできない」



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