高天原異聞 ~女神の言伝~

 比売神が憑坐をすて、神霊のみの姿をとった。
 黄泉国は死者の国。
 生きている人間の憑坐は、禍つ霊を使うには邪魔だった。
 憑坐が力無く倒れ、長い髪が広がる。

「葺根、異界は繋いだままに」

「わかりました」

「闇山津見、隙を見て禍つ霊の憑坐を救い出せ」

「はっ」

「久久能智と石楠は祖神を護れ。瓊瓊杵よ。その身体は祖神のもの。傷一つつけてはならん」

「御意に」

「宇受売、神田比古、いざというときは援護しろ」

「お任せを」

 建速の手に美しい鞘に包まれた十拳剣《とつかのつるぎ》が顕れる。
 神威に満ちた剣を手に、荒ぶる神は禍つ御霊に対峙した。
 かつても今も美しい容は、憎悪と狂気に歪んでいた。
 美しかった神気は禍々しく揺らめき、癒すように満ちていた神威は仄暗く身を凍り付かせんばかりの冷たさを放っている。
 これが、かつては美しく咲く花にたとえられた比売神の末路か。

「憐れな……」

 だが、その言霊はすでに狂気に呑まれた比売神には届かない。

「どけ、荒ぶる神であっても私の邪魔はさせぬ。我が望みは、天孫の日嗣の御子。豊葦原に黄泉返ることなど、許さぬ。その神霊を引き裂いて、もう一度黄泉国に追い返す!!」

 呪いの言霊とともに、禍つ御霊から禍つ霊が放たれた。

「よせ、比売神!!」

 建速は己のではなく、剣の神威を使って、禍つ霊を防ぐ。
 だが、禍つ霊が持つ憎しみが、怒りが、強すぎる。
 荒ぶる神をもってしても押さえきれないのは、此処が闇に力を与える黄泉国だからか。

 抑えきれぬ神威が、鋭い刃となって建速の身体を切り裂いた。
 鮮血が、飛び散る。
 荒ぶる神の流す血が、黄泉国の大気に散り、大地に吸い込まれる。

「建速様!!」

「俺に構うな!! 慎也を護れ!!」

 祖神の神霊を取り戻すまでは、闇の主に悟られてはならない。

 比売神の背後にある扉の向こうに、伊邪那岐の神霊が在る。
 取り戻せぬうちに闇の主が目覚めれば、たとえ三柱の貴神《うずみこ》であり八百万の神の中で最も強い神威が与えられた自分でも太刀打ちできまい。
 未だ目覚めぬ女神と誓ったのだ。
 その身体も神霊も何一つ傷つけずに返してやると。

「言霊に誓った以上、何としてでも果たさねばならぬ――木之花知流比売、しかと見よ!! そなたの捜していた妹比売は日嗣の御子の傍らに在る!! 狂気を抑えよ、正気に返れ!!」

 荒れ狂い襲いかかる禍つ霊に曝されながらも、建速は言霊で訴えた。
 傷つき、血を流しながらも、傷ついた身体が、御治によって癒されていく。
 神々に許された癒しの神威――御治は、追いつかぬほどの攻撃に曝されている荒ぶる神の裂けた身体を鬱ぎ、血を止める。
 じりじりと、荒ぶる神は下がった。
 禍つ御霊を闇の異界から引き離すために。

「建速様!!」

 援護する宇受売に、建速は神話《しんわ》を送る。

――宇受売、俺が引きつける間に、隙を見て伊邪那岐の神霊を檻から出せ!!

――わかりました。今しばらくお待ち下さい!!

 宇受売もじりじりと動き、禍つ御霊の背後へ回り込もうとする。

「やめて、お姉様!!」

 日嗣の御子の前に立ちはだかり、叫ぶ女神。

「避けろ、咲耶! 姉比売は正気ではないのだ、そなたがわからぬ!!」

 かつて同じであった神気は、今は禍々しく仄暗く揺らめいている。
 狂気に支配された禍つ御霊には、捜し求めていた妹比売にさえ気づかない。
 彼女の中にあるのは、天孫の日嗣の御子への憎しみだけ。
 その神霊が祖神の身体の中に在ろうとも、何の意味も成さなかった。

「ここまでか」

 荒ぶる神が鞘を抜く。
 溢れる神気が剣から放たれ、神威が満ちる。
 刃光煌めく美しいその剣を見て、闇山津見は驚愕に叫ぶ。

「その剣は……!? 荒ぶる神よ、御慈悲を! それは、神殺しの剣!! それで斬られれば、姉比売様は!!」

 それは、神代で初めて神を斬って、その命を奪った剣。
 愛しい妻を奪われた夫が、我が子に振り上げた剣。
 流された神の血によって、凄まじい神威を宿し、これで斬れば、禍つ霊とて滅せるほどの――その名は、天之尾羽張《あめのおはばり》――神殺しの剣。

 荒ぶる神は、美しい剣を構え直した。

 斬らねばならぬ。
 祖神の神霊を取り戻すために。

 そう、決意した。

 だが。

 荒ぶる神の流した血から、突如火柱があがった。

「何!?」


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