高天原異聞 ~女神の言伝~
「う……うぅ……」
苦痛に苛まれながらも、姉比売は身体を起こした。
揺らめく禍つ霊は、残り火のように僅かで、彼女を蝕んでいた狂気すら、今は祓われていた。
正気に返って、辺りを見回す。
目を凝らしても、何処までも暗闇しかない。
目が見えないのだ。
浄化の炎に焼かれたからか。
それでも、懐かしい神気を感じる。
ずっと捜し求めていた自分の半神。
幼子のように涙を流しながら、姉比売は捜し続けた妹比売の神気に向かって駆け寄り、縋り付いた。
「咲耶……咲耶なのね」
縋り付いた柔らかな身体が、自分を抱きしめ返す。
「ええ、私よ……お姉様」
懐かしく、自分を呼ぶ言霊。
歓喜が、身を震わせる。
「何処に往っていたの……? ずっと、ずっと捜していたのよ……」
「ごめんなさい、お姉様。こんなに永くお待たせして……」
「もう何処にも往かないで……私を置いて、独りでいなくならないで」
「ええ、ええ……」
抱きしめる木之花咲耶比売の腕の中で、比売神は束の間の幸福に酔いしれた。
力が抜けていく。
神霊が徐々に霞んでいった。
憑坐を捨て、神霊を浄化の炎で焼かれた比売神は、命尽きようとしていた。
「お姉様!」
蹌踉めく姉比売を、妹比売が支えながら膝をつく。
もう二度と放すまいと、しがみつきたいのに、姉比売の腕は、力無く投げ出されたままだった。
代わりに、妹比売がしっかりと姉比売を抱き寄せ、胸に抱く。
顔を仰ぐと、懐かしい神気が、自分を包み込んでいる。
束の間、全てが満たされていたあの神代の時代に戻ったかのような幸福な錯覚に身を震わせる。
「咲耶……あの方に逢いたい……」
愛しい夫に、子に、姉比売は逢いたかった。
美しい豊葦原の青い空が、連なる山々と何処までも続く緑が、咲き誇る美しい花が、見たかった。
「逢えるわ。お姉様」
「もう逢えないわ……」
姉比売の何も映さぬ瞳から涙が零れる。
禍つ霊となった自分がどうして愛しい方の処へ戻れよう。
こんなに醜い姿で。
だからここには何もないのだ。
自分の愛するものが何一つ見えない暗闇で、永遠に彷徨わねばならぬのだ。
「お姉様は、ほんの少し、哀しい夢を見たの。夢は終わりよ。もうこんな夢は見ない」
木之花咲耶比売が母親のように姉比売を優しく抱く。
「……本当に?」
「ええ。私が傍にいるわ。ずっと一緒よ」
妹比売の神気を、感じる。
姉比売は力の入らぬ腕を必死で伸ばし、その神気に縋り付く。
優しく、清らかな神気は、かつてはいつも傍らにあり、同時にそれは、自分のものでもあったのだ。
失って、捜し続けて、何という永い時が流れたのだろう。
ようやく会えた。
自分の半神に。
壊れた心が、傷ついた御霊が、癒されていく。
悪夢は去り、穏やかに眠れる日が、ついに来たのだ。
「……」
幸せな涙が零れた。
木之花知流比売を包んでいた禍つ霊が、消えていく。
美しい神気が輝き、揺らめく。
かつて美しい花と称えられた比売神の、美しい神威が満ちる。
姉比売は、咲く花のように美しく微笑んだ。
そうして、木之花咲耶比売の腕の中で、比売神は美しく散る花のように消えていった。