高天原異聞 ~女神の言伝~
宇受売の最後の一突きが、黄泉軍を全て霧散させた。
同時に、神田比古を足止めしていた闇もかき消える。
そこで、ようやく宇受売は地に足を着け、神田比古に駆け寄る。
「さすが天津神随一の巫女神。戦う姿も舞うように美しい」
「戯言を――大丈夫なのか?」
「傷つかぬさ。俺はすでに死神だぞ」
宇受売が神田比古の手を見ると、確かに闇に貫かれた手には何処にも傷跡はなかった。
同様に足元を見ても、甲には何もない。
闇は死神を傷つけない。
改めて、宇受売は神田比古が自分とはもう違うのだと悟った。
「別れの時だ、宇受売」
穏やかな声に、宇受売は否とは言えなかった。
「共には、往けぬのか……」
「往けぬ。俺が現世に戻るなら、記憶は失われる。そしてまた、お前を豊葦原に縛りつけてしまう」
「縛りつけてなど――!!」
「それでも、天が恋しいだろう?」
「――」
「もうよい。還れ、宇受売。俺を捜して、こんなに永く豊葦原に留まるとは……そのようなこと望んではいなかった。だから最初に、言霊に誓った。死ぬまでは傍にいて欲しいと。俺が死んだら、天に還っていいと。そなたの還りたい場所へ還れ。それは豊葦原ではない。高天原だ」
宇受売の言霊を遮り、神田比古は懐から比礼を取り出した。
ふわりと風に揺れ、宇受売の肩にかけられる。
比礼の神威により、宇受売の身体がふわりと浮き上がる。
「神田比古」
淡く光るそれは、かつて宇受売が神田比古へ与えたもの。
それは、彼らの誓いそのものだった。
「天へ還るための、そなたの羽衣を返してやる。忘れるな。それが俺の、そなたへの愛なのだ」
堪えきれずに宇受売が両手を伸ばし、神田比古の両頬を挟んで覆い被さるようにくちづけた。神田比古が宇受売の腰に腕を回し引き寄せ、くちづけに応える。
最後のくちづけは、あの時のままに優しく、甘く、愛おしかった。
そして、互いは互いに悟った。
果たされぬと知っていても、誓っただろうと。
たとえどれほどの時が過ぎ逝きて、永遠に独りでも、想い続けるだろうと。
名残惜しげに唇が離れ、神田比古が比礼の神威で宙に浮かぶ天女から手を放す。
「新たな黄泉軍が来る。奴らは神霊を持たぬ。この木の神気も今なら越えられる。往け、宇受売」
「神田比古――」
神田比古の背後に目をやり、近づいてくる黄泉軍に気づき、躊躇うも宇受売は泣き出しそうな顔で背を向けた。
宇受売の神霊が、光の矢の如く飛んでいく。
その後を、黄泉軍が追いかけていく。
美しい軌跡を、道往神は咲いながらいつまでも見送っていた。