高天原異聞 ~女神の言伝~

「また泣いてる」

 横からかかる声に、意識を引き戻され、視線を向けると慎也が立っている。

「――」

 泣きたいような、笑いたいような、切ない感覚は、慎也を見ても溢れてくる。
 この世界で、こんな風に、いつまでも見つめていたいと思う最たるものは、慎也だ。
 いつも、逢いたくて、傍にいたくて、触れていたいと思う。
 この感情は、恋と呼ぶには切なすぎて、愛と呼ぶにはもどかしすぎる。
 引力のように分かちがたく惹かれ合う、それは建速が言う『対の命』であるからなのか。
 だが、その気持ちは、ここでは抑えなければならない。
 頬に触れようとする慎也に気づいて、慌てて涙を拭う。

「もう泣いてないわ。大丈夫」

 その態度に、慎也が眉を顰める。

「美咲さんが、いつにも増してよそよそしい」

「――――そんなこと、ないわよ」

「その間が、確信犯だ」

 図星を指されて、一瞬だけ視線が彷徨う。

「俺は、美咲さんと一分一秒でも離れてたくないと思ってるのに、美咲さんはそうじゃないんだ」

「そうじゃないことはないんだけど、そうじゃなくもなくないような……? ……あれ?」

 自分は否定したいのか肯定したいのか、言っていてわからなくなってきた。

「自分で言っててわけわかんなくなってる。確信犯だな、やっぱり」

 軽く息をつくと、慎也は山中に向かって声をかける。

「宇受売」

「はい、父上様」

「俺と美咲さん、書庫にいるから、出てくるまで誰も近づけないで」

「御意に」

 あっさりと従う山中――宇受売に、それは良くないと言おうとしたが、その前に腕を取られて書庫へと連れ込まれる。

「慎也くん、ちょっと、今仕事中なのよ!」

「どうせ久久能智と石楠にとられちゃって暇だったんでしょ。ならいいじゃん」

 それはそうでも、せめてカウンター業務はしたいのだ。
 奪われない唯一の業務を、今度は慎也に奪われるとは納得がいかない。
 慎也は美咲の手を掴んだまま階段を上がり、中二階の書棚の間を抜け、さらに奥の階段を上がる。
 そこは、書庫の最上階だ。さらに古い蔵書が棚に隙間なく詰められ、脇には詰め切れなかった本が平積みで置かれている。
 慎也は最奥まで向かって、ようやく足を止めた。
 そうして、振り返ると美咲をぎゅっと抱きしめる。

「あー、やっと美咲さんに触れる」

「大げさね」

「大げさじゃない。すっごい美咲さんに逢いたかったんだ。これが来週まであるなんてめんどくさい」

「午前中だけでしょ」

「俺にとっては貴重な時間だよ。夏休みはずっと一緒にいられると思ったのに、気が付けば半分が終わってるなんて詐欺だ!!」

「それを私に言われても――」

 そうなのだ。
 慎也が攫われたのが、夏休みの始まりで、根の堅州国、黄泉国――自分の意識はなかったが――を経て、戻ってきてみれば、一月近くあった夏休みは今週を除けば、余すところあと二週間ほどしかないという現実が待っていたのだ。
 建速の言うところの現世と幽世の時の流れの差違とは、このことだったのだ。

「あと二週間は、いつもよりずっと長く一緒いいられるわ」

「長くないよ。講習で来週も午前中は逢えないし、終わって図書館来てみれば、いっつも邪魔者がいる」

 むくれたように答える慎也に、美咲は困ってしまう。
 神代の記憶が全くない慎也にしてみれば、神々は所詮邪魔者なのだ。
 美咲のように懐かしむと言った感覚も、ないらしい。

「美咲さんとだけ、一緒にいたい。建速も国津神もいらないよ」

「そんなこと、言わないで」

「美咲さんも、何でそんなに他人を気にするかなぁ。俺は美咲さんしか見てないのに。不公平だ」

 いきなり美咲の身体を横に引くと、慎也は置いてあった革張りの長椅子に、美咲を座らせた。

「え? 何で、こんなところに」

 座らされた美咲もびっくりだ。
 背もたれのないその長椅子は、きっと館内の閲覧用として使われていたものだろう。
 ここにあるのも驚きだが、目立った埃がないのも気になる。

「俺の書庫での読書用の椅子。1年の時、山中先生が買い換えで余ってたのここに運んでいいって言ってくれたんだ」

「――」

 甘い。
 いくらお気に入りとはいえ、山中は慎也に甘すぎる。
 それも、宇受売の仕業なのか。
 どこまでが山中本人の気持ちなのか、宇受売の意志なのかがわからない。

「また、余計なこと考えてる」

 慎也が隣に腰掛けて、美咲のほうに身を乗り出してきていた。
 慌てて横にずれて距離をとる。

「ち、近いから。近すぎるから、離れて」

「離れたら、美咲さんにキスできない」

 美咲が離れた分だけ、慎也は距離を縮める。
 片膝をついて、美咲に覆い被さるように迫ってくる。
 当然、美咲は長椅子の端に追いつめられる。
 倒れ込みそうになるのを、後ろ手に支えるが、端のぎりぎりに手をついているため、これ以上は下がれない。
 慎也は構わず顔を近づけて、斜めに傾いだ美咲の背中に片腕を回す。
 もう片方は、美咲の脇について身を乗り出しているので、美咲は前にも後ろにも動けなくなった。

「約束通り講習受けてきた。ご褒美ちょうだい」

「ちょ――」

 答える間もなく慎也が唇を重ねてきた。


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