高天原異聞 ~女神の言伝~

8 揺れる心

 新学期が始まって1週間後、慎也達3年生は修学旅行に行く準備で俄に忙しくなった。
 私立なので、コースは3つに別れる。
 北海道か、沖縄か、京都かだ。
 いずれも四泊五日で、慎也は最初行きたくないとごねた。
 勿論、美咲と離れるのが嫌だという理由で。
 だが、慎也には敢えて普通の高校生らしく過ごしてほしい美咲は行くよう勧めた。
 3年生の中には国津神の憑坐もいる。
 山中を憑坐としている宇受売も今回は引率すると言うことで、渋々慎也は承諾した。
 宇受売の、何かあったら神威を使ってすぐに戻れる、という一言が決定打だったようだ。
 コースは一番近い京都を選んだ。
 建速と葺根は美咲の傍で護るとのことだった。
 行きたくない反動からか、慎也は前日の月曜日まで美咲のアパートに泊まって、不本意そうな顔で葺根に送られていった。
 美咲も寂しいから、たくさんメールをくれと送り出した。


 慎也とは、毎日顔を合わせていたが、美咲が仕事中は慎也も授業があるので、逢うのはほとんどが放課後だった。
 だから、いつも通りなはずなのに、美咲はもう慎也が恋しかった。
 安全であるとはいえ、こんな風に離れたのは初めてのことだからだ。
 相変わらず国津神達が美咲の周りにいてくれ、今回は、朝から建速も傍にいてくれる。
 それでも、慎也に逢いたい自分は、きっとどこかおかしくなっている。
 いつもはバッグの中の携帯がポケットでメールの着信を告げる。

『逢いたい』

 開口一番のメールに、胸が熱くなる。
 自分も同じだ。
 スクロールすると、続きに笑ってしまう。

『高三で修学旅行って、うちの学校進学考えてないのかな。二年で終わらせといてくれれば良かったのに』

 慎也の言い分もわかる。
 大抵は受験生であるということを考慮して二年で行く高校が多いらしいのだ。
 美咲の高校も、確か二年生の時だった。
 苦肉の策か、ここでは京都コースは京大見学が予定されているらしいが、北海道と沖縄はそのような配慮がない。
 公立と違っていても、私立だからと格別変にも思わない。カリキュラムも、かなり変わっているのが、この高校の特徴なのだから。

『受験生にも楽しみが必要なのかも。私も逢いたい』

 返信して、携帯をしまう。
 離れていても、想っていてくれる。
 そう感じると、寂しさも少しは紛れた。

「美咲」

 呼ばれて視線を向けると、読みかけの本から顔を上げて、建速がこちらを見ていた。
 窓際にある閲覧用の長椅子に座る建速は、長い足を組んでいて、見るからに絵になる。

「此処へ座れ、寂しいなら話し相手になる」

「――」

 美咲のことなどお見通しなようだ。
 神気を隠していても、建速は特別だ。
 建速が傍にいる限り、自分は安全なのだろう。
 美咲は素直に隣に座った。
 近くで見ると、ますます美しいなと思う。

「何を考えている?」

「建速のこと。建速は、したいこと、他にないの?」

「今している。美咲の傍にいる」

 なぜそんなことを聞くのかという顔で、建速が美咲を見つめる。

「俺達は、美咲の傍にいたいんだ。神代の時代からの念願がようやく叶ったんだ。そう邪険にするな」

「そ、そうじゃなくてね」

「では、何だ。何が問題だ」

 建速が読みかけの本を閉じる。

「こんなこと、いつまで続けるの?」

「いつまで? どういう意味だ」

「黄泉神は、伊邪那美を取り戻したがっているんでしょう? きっとまた、やってくる。天津神は、伊邪那岐だけを取り戻したいのよね」

「そして、俺達国津神はそれを許さない。黄泉神からも天津神からも、あんたと慎也を護る。終わりはない。俺達は、永遠に命在る限り、護り続ける。それだけだ」

「天に逆らえるの……?」

「天も間違う。母なる伊邪那美を豊葦原に取り戻すことで、俺達は過ぎ去った神代を再び呼び戻した。天津神には思いもつかなかっただろうな。彼らの世界は、閉じたままなんだ。だから、変化を好まない。天に在っては、変わらぬことが正しい理だからだ。豊葦原のように変わりゆく世界は、彼らには理解できないんだ。
 だが、俺にはわかる。神々が現象しない豊葦原が、どれほど寂しく、虚しいものか。
 唯独り取り残されて彷徨ってきた俺だからこそ。
 神々を取り戻した世界は美しい。
 全てのものに神が息づく世界は、あまりにも愛おしい。
 美咲、あんたは、全ての命の母なんだ。あんたがいなければ、俺達はこの豊葦原に、世界に、存在し得ない。だからこそ、生きて、此処に、この豊葦原に在ってほしい。それが、俺達の願いなんだ」

「でも、今の私は人間よ。記憶もない。いつか歳をとって死ぬわ」

「そうはならない。その前に、きっと記憶と神威を取り戻す」

「どうして、そんなことわかるの……?」

「咲耶比売が言っていた」

「木之花咲耶比売が?」

 胸の奥が、ざわりとする。
 自分の中にいたという木之花咲耶比売。
 伊邪那美が、黄泉国で待ちこがれていた女神。
 彼女が神去って、黄泉路を降ったから、伊邪那美は現世へ還ることができたのだ。
 だが、本当に、待っていただけだったのか。
 ただ黙って、見ていただけなのか。

「伊邪那美は、豊葦原に、戻りたかっただけなのかしら?」

「それは、俺達にはわからん。咲耶比売は違うと言っていたが、それは、俺にはどうでもいいことだ。伊邪那美の傍らで、伊邪那美が記憶と神威を取り戻すまで護り続ける」

「どうして、そんなに、大切にしてくれるの……? 神代では、建速は伊邪那美から産まれたわけじゃないのに」

「そうだ。俺達三貴神は伊邪那美の胎《はら》から産まれたわけではない。だが、黄泉国の領界で、死神となった伊邪那美と生神であった伊邪那岐の交合いから成りませることには変わりはない。死と生の強大な神威が、俺達を現象させたのだ。それもまた、理なのだろう」

「理……」

「我々神が産まれた理由、神代が去った理由。伊邪那美が木之花咲耶比売を伴って黄泉返った理由、伊邪那岐が瓊瓊杵とともに追った理由。そうして、再び豊葦原に神々が還った理由。それに伴い、引き離されていた神々の領界が再び交わった理由。それら全てが、伊邪那美に通じるんだ。母なる伊邪那美が始めたのなら、終わらせられるのも伊邪那美だけだ。俺達はそれに従う」

「その終わりが、どんな結果になっても?」

「ああ。それが、伊邪那美の意志なら」

 建速の言霊に、美咲は身を震わせる。
 一体、伊邪那美は何を思って現世に黄泉返ったのか。
 伊邪那岐への思慕か。
 それとも憎しみ故か。
 夢で見た、神々を救うとは、どのような意味を持つのか。
 そして、全てが終わった後、何が残るのか。

「――咲耶比売と、話がしたい」

「わかった。午後でいいか」

「ええ」

「では、咲耶比売を呼んでおこう。不安がるな」

「ええ……」

 豊葦原の神々の中で一番強いだろう建速。
 それなのに、美咲の感情は波のように揺れ、定まらない。
 慎也が傍にいないと、いつも自分は不安で、寂しくて、仕方がない。
 早く週末になればいいのに。
 そう強く願った。



 準備室で昼食を食べ終え、カウンターに戻ると、すでに館内にはまばらに人がいた。
 その内の一人が、近づいてくる気配に、美咲は顔を上げた。

「あ、綾、さん……」

 長い髪を揺らして、歩いてくる女は坂崎綾――女神の憑坐だった。

「母上様――」

 その一瞬で、綾の身体から神気が揺らめくのか見えた。
 温かく穏やかな神気。
 それは、夢の中の女神と、同じものだった。

「木之花咲耶比売《このはなさくやひめ》、ですか……?」

「はい、母上様」

 にっこりと咲う咲耶比売は、本当に美しかった。






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